収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく
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総ページ数 2
暁月夜(あかつきよ) 一葉女史 第一回 櫻の花に梅が香とめて柳の枝にさく姿と、聞くばかりも床しきを心にくき獨りずみの噂、たつ名みやび男の心を動かして、山の井のみづに浮岩るゝ戀もありけり、花櫻香山家ときこえしは門表の從三位よむまでもなく、同族中に其人ありと知られて、行く水のながれ清き江戸川の西べりに、和洋の家づくり美は極めねど、行く人の足を止むる庭木のさまざま、翠色したゝる松にまじりて紅葉のあるお邸と問へば、中の橋のはし板とゞろくばかり、扨も人の知るは夫のみならで、一重と呼ばるゝ令嬢の美色、姉に妹に数多き同胞をこして肩ぬひ揚げの幼なだちより、いで若紫ゆく末はと寄する心のひと/\"人々も多かりしが、空しく二八の春もすぎて今歳廿のいたづら臥、何ごとぞ飽くまで優しき孝行のこゝろに似ず、父君母君が苦勞の種の嫁いりの相談かけ給ふごとに、我まゝながら私し一生ひとり住みの願ひあり、仰せに背くは罪ふかけれど、是ればかりはと子細もなく、千扁一律いやいやを徹して、はては世上に忌はしき名を謡はれながら、狭き乙女の氣にもかけず、更けゆく歳を惜しみもせず、静かに月花をたのしんで、態とにあらねど浮世の風に近づかねば、慈善曾に袖ひかれたき願ひも叶はず、園遊會に物いひなれん頼みもなくて、いとゞ高嶺の花ごゝろに苦るしむ人多しと聞きしが、牛込ちかくに下宿住居する森野敏とよぶ文學書生、いかなる風や誘ひけん、果敢なき便りに令嬢のうはさ耳にして、可笑しき奴と笑つて聞きしがその獨栖の理由、我れ人ともに分らぬ處何ゆゑか探りたく、何ともして其女一目見たし、否見たしでは無く見てくれん、世は冠せ物の滅金をも、秘佛と唱へて御戸帳の奥ぶかに信を増さするならひ、朝日かげ玉だれの小簾の外には耻かゞやかしく、娘とも言はれぬ愚物などにて、慈悲ぶかき親の勿体をつけたる拵へ言かも知れず、夫れに乗りて床しがるは、雪の後朝の末つむ花に見参まへの心なるべし、扨も笑止とけなしながら心にかゝれば、何時も門前を通る時は夫れとなく見かへりて、見ることも有れかしと待ちしが、時はあるもの飯田町の學校より歸りがけ、日暮れ前の川岸づたひを淋しく來れば、うしろより、掛け聲いさましく駈け抜けし車のぬしは令嬢なりけり、何處の歸りか高髷おとなしやかに、白粉にはあるまじき色の白さ、衣類は何か見とむる間もなけれど、黒ちりめんの羽織にさらさらとせし高尚き姿、もしやと敏われ知らず馳せ出せば、扨こそ引こむ彼の門内、車の輪の何にふれてか、がたりと音して一ゆり揺れれば、するり落かゝる後ろざしの金簪を、令嬢は繊手に受けとめ給ふ途端、夕風さつと其袂を吹きあぐれば、翻がへる八つ口ひらひらと洩れて散る物ありけり、夫れと知らねば車は其まゝ玄關にいそぐを、敏何ものとも知らず遽しく拾ひて、懐中におし入れしまゝ跡も見ずに歸りぬ。 乗り入れし車は確かに香山家の物なりとは、車夫が被布の縫にも知れたり、十七八と見えしは美くしさの故ならんが、彼の年齢の娘ほかに有りとも聞かず、噂さの令嬢は彼れならん彼れなるべし、さらば噂さも嘘にはあらず、嘘どころか聞きしよりは十倍も二十倍も美し、さても、其色の尋常を越えなば、土に根生ひのばらの花さへ、絹帽に挾まれたしと願ふならひを、彼の美色にて何故ならん、怪しさよと計り敏は燈下に腕を組みしが、拾ひきしは白絹の手巾にて、西行が富士の烟りの歌を繕ろはねども筆のあと美ごとに書きたり、いよいよ悟めかしき女、不思議と思へば不思議き限りなく、あの愛らしき眼に世の中を何と見てか、人じらしの振舞ひ理由は有るべし、我れ夢さら戀なども厭やらしき心みぢんも無けれど、此理由こそ知りたけれ、若き女の定まらぬ心に何物か觸るゝ事ありて、夫れより起りし生道心などならば、かへすがへす淺ましき事なり、第一は不憫のことなり、中々に高尚き心を持そこねて、魔道に落入るは我々書生の上にもあるを、何ごとにも一と筋なる乙女氣には無理ならねど、さりとは歎かはしき迷ひなり、兎も角も親しく逢ひて親しく語りて、諌むべきは諌め慰むべきは慰めてやりたし、さは言へど知りがたきが世の中なれば令嬢にも悪き虫などありて、其身も行きたく親も遣りたけれど嫁入りの席に落花の狼藉を萬一と氣づかへば、娘の耻も我が耻も流石に子爵どの宜く隠くして、一生を箱入りらしく暮らさせんとにや、さすれば此歌は無心に書きたるものにて半文の價値もあらず、否この優美の筆のあとは何としても破簾耻の人にはあらじ、必らず深き子細ありて尋常ならぬ思ひを振袖に包む人なるべし、扨もゆかしや其ぬば玉の夜半の夢。 はじめは好奇の心に誘はれて、空しき想像をいろいろに描きしが、又折もがな今一と度みたしと願へど、夫よりは如何に行違ひてか後ろかげだに見ることあらねば、水を求めて得ぬ時の渇きに同じく、一念此處に集まりては今更に紛らはすべき手段もなく、朝も晝も燭をとりても、はては學校へ行きても書を開らきても、西行の歌と令嬢の姿と入り亂だれて眼の前を離れぬに、敏われながら呆れる計り、天晴れ未來の文學者が此様のことにて如何なる物ぞと、叱りつける後より、我が心ふらふらと成るに、是非もなし是上はと下宿の世帯一切たゝみて、此家にも學校にも腦病の療養に歸國といひ立て、立いでしまゝ一月ばかりを何處に潜みしか、戀の奴のさても可笑しや、香山家の庭男に住み込みしとは。 第二回 敏おさなきより植木のあつかひを好きて、小器用に鋏も使へば、竹箒にぎって庭男ぐらゐ何でもなきこと、但し身の素性を知られじと計り、誠に只今の山出しにて、土をなめても是れを立身の手始めにしたき願ひと、我れながら宜くも言へたる嘘にかためて、名前をも其通り、當座にこしらへて悟すけ吾助とか言ひけり、さても氣の利かぬとて是れほどの役廻りあるぺきや、浮世の勤めを一巡終りて、さても猶かゝるべき子の怠惰にてもあらば、如來様お出迎ひまで此口つるしても置かれず、草むしりに庭掃除ぐらゐはとて、六十男のする仕事ぞかし、勿躰なや古事記奮事記を朝夕に開らきて、万葉集に不審紙をしたる手を、泥鉢のあつかひに汚がす事と人は知らねど、埒もなく万年青の葉あらひ、さては芝生を這つて木の葉を拾ふ姿、我ながら見られた体でなく、これを萬一も學友などに見つけられなばと、心笹原をはしりて、門外の用事を兎角に厭へば、勝手ばたらきの女子ども可笑しがりて、束京は鬼の住む處でもなきを、土地なれねば彼のやうに怕きものかと、美事田舎ものにしてのけられぬ。 君ゆゑこそ可惜青年一人、此處にかく淺ましき躰たらくと、窓の小笹を吹く風そよとも告げねば、知らぬ令嬢は大方部屋に籠りて、琴の音などにいよいよ心を惱まさせけるが、折ふしの庭あるきに徴塵きずなき美くしさを認め、我れならぬ召使ひに優しき詞をかけ給ふにても情ふかき程は知られぬ、最初のさう/\"想像には子細らしく珠數などを振袖の中に引きかくし、經文の讀誦に抹香くさくなりて、娘らしき匂ひは遠かるべしと思ひしに、其やうの気ぶりもなく、柳髪いつも高島田に結ひ上げて、後れ毛一と筋えりに亂ださぬ嗜みのよさ、さても好みの斯くまでに上手なるか、但しは此人の身に添ひし果報か、銀の平打一つに鴇色ぶさの根掛むすびしを、優にうつくしく似合ひ給へりと見れば、束髪さしの花一輪も中々に愛らしく、此處一つに美人の價値定まるといふ天然の衣襟つき、襦絆の襟の紫なる時は顔色こと更に白くみえ、態と質素なる黒ちりめんに赤糸のこぼれ梅など品一層も二層もよし、あるが中にも薄色綸子の被布すがたを小波の池にうつして、緋鯉に餌をやる弟君と共に、餘念もなく麩をむしりて、自然の笑みに睦ましき囁きの浦山しさ、敏もとより築山ごしに拝むばかりの願ひならず、あはれ此君が肺腑に入りて秘密の鍵を我が手にしたく、時機あれかしと待つま待遠や、一月ばかりを仇に暮して近づく便りの無きこそは道理なれ、日」め令嬢は高嶺の花これは麓の塵、なれども嵐は平等に吹く物ぞかし。 甚之助とて香山家の次男、すゑなりに咲く花いとゞ大輪にて、九つなれども權勢一家を凌ぎ、腕白さ限りなく、分別顔の家扶にさへ手に合はず、佛國に留學の兄上御歸朝までは、此君にあたる人あるまじと見えけるが、嬢とは随一の中よしにて、何ごとにも中姉様と慕ひ寄れば、もとより物やさしき質の、これは又一段に可愛がりて、物さびしき雨の夜など、燈火の下に書物を開らき、膝に抱きて畫を見せ、これは何時何時の昔し何處の國に、甚様のやうな剛き人ありて、其時代の帝に背きし賊を討ち、大功をなして此畫は引上の處、この馬に乗りしが大將と説明せば、雀躍して喜び、僕も成長ならば素晴らしき大將に成り、賊などは何でもなく討ち、そして此様に書物に記かれる人に成りて、父様や母様に御褒美を頂くべしと威張るに、令嬢は徴笑みながら勇ましきを賞めて、その様な大將に成り給ひても、私しとは今に替らず中よくして下されや、大姉様も其外のお人も夫々に片付て、人の奥様に成り給ふ身、私しにはお兄様とお前様ばかりが頼りなれど、誰れよりも私しはお前様が好きにて、何卒いっまでも今の通り御一處に居りたければ、成長くなりてお邸の出來し時、かならず伴なひてお茶の間の御用にても爲せ給へ、お分りに成りしかと頬ずりして言へば、しだらも無く抱かれながら口ばかりは大人らしく、それは僕が大將に成りて、そしてお邸が出來さへすれば、其處に姉様を連れて行きて、いろいろの御馳走をなし、いろいろの面白きことをして遊ぶべし、大姉様や小姉様は僕を少しも可愛がりて呉れねば、彼んな奴には御馳走もせず、門をしめて内へ入れずに泣かしてやらん、と言ふを止めて、其様な意地わるは仰しやるな、母様がお聞にならば悪るし、夫れでも姉様たちは自分ばかり演藝曾や花見に行きて、中姉様は何時もお留守居のみし給へば、僕が成長ならば中姉様ばかりほう/\"方々に連れて行きて、ぱのらまや何かゞ見せたきなり、夫れは色々の畫が活たる様に描きてありて、鐵砲や何かも本當の様にて、火事の處もあり軍の處もあり、僕は大變に好きなれば、姉様も御覧にならば屹度お好きならん、大姉様は上野のも淺草のもはう/\"方々のを幾度も見しに、中姉様を一度も連れて行かぬは意地わるでは無きか、僕は夫れが憎くらしければと、思ふままを遠慮もなく言ふ可愛さ、左様おもふて下さるは嬉しけれど、其様のこと他人に言ふて給はるなよ、芝居も花見も行かぬのは私しの好きにて、姉様たちの御存じはなき事なり、もう此話しは廢しまするほどに、何ぞお前様が今日あそびて、面白く思ひしお話しがあらば聞かして下され、今日は悟すけ吾助がどの様なお話しをいたしました。 この大將の若様難なく敏が擒になりけり、令嬢との中の睦ましきを見るより、奇貨おくべしと竹馬の製造を手はじめに、植木の講釋、いくさ物語、田舎の爺婆は如何にをかしき事を言ひて、何處の野山は如何にひろく、某の海には名のつけ様もなき大魚ありて、鰭を動かせば波のあがること幾千丈、夫れが叉鳥に化してと、珍らしきこと怪しきこと取とめなく詰らなきことを、可笑しらしく話して機嫌を取れば、幼な心に十倍も百倍も面しろく、吾助々々と付きまとひて離れず、我が心に面白しと聞けば夫れを其まゝ令嬢に語りて、吾助が話しは何ごとも嘘ならぬ顔つき、眞面目らしく取りつぐを聞けば、時鳥と鵙の前世は同郷人にて、沓さしと鹽賣なりし、其時に沓を買ひて價をやらざりしかば、夫れが借金になりて鵙は頭が上がらず、時鳥の來る時分に餌をさがして蛙などを道の草にさし、夫れを食はせてお詫をするとか、是れは本當の本當の話しにて和歌にさへ詠めば、姉様に聞きても分ることゝ吾助が言ひたり、吾助は大層な學者にて何ごとも知らぬ事なく、西洋だの支那だの天竺や何かのことも宜く知りて、其話しが面白ければ姉様にも是非お聞かせ申たし、從來の爺と違ひ僕を可愛がりて姉様を賞めて、本當に好い奴なれば、今度僕の沓したを編みてたまはる時彼れにも何か製らへて給はれ、宜しきか姉様、屹度ぞかし姉様と、熱心にたのみて、覺束なき承諾の詞を其通り敏に傅ふれぱ、此消息は人目の關の憚りもなく、玉簾やすやす越えて、見るは邂逅なる令嬢の便りを敏は日毎に手に取るばかり、事故ありげなる心の底も、此處にはじめて朧々わかれば、可憐の念むらむらと堪へがたく、君ゆゑにこそ斯くまでに身を盡くす我、木石ならぬ令嬢に憎くかるベき筈なし、此荊棘の中すくひ出してと、影も未だなる戀に竹の柱の詫住居を思ひぬ。 第三回 闇を常なる人の親ごゝろ、子故の道に迷はぬは無きものをと敏此處に眼を止むれば、香山家三人の女子の中、上は氣むづかしく末は活溌にて、容貌大底なれども何として彼の君に及ぶ者なく、是れにても同胞かと思ふばかりの相違なるに、怪しきは母君の仕向にて、流石しも/\"下々の目に立し分け隔ては無けれども、同じ物言ひの何處やら苦がく、愁らかるべしと思ふこと折々に見えけり。 子爵の君最愛のおもひ者など、桐壼の更衣めかしき優さ形なるが、此奥方の妬みつよさに、可惜花ざかり肺病にでもなりて、形見の止めし令嬢ならんには、父君の愛いかばかり深かるべきを、いよいよ胸わるく憎くらしく思ひ、然るべき縁にもつけず生殺しにして、他處目ばかりば何處までも我儘らしき氣随ものに言ひ立て、其長き舌に父君をも巻き込みしか、この一家に令嬢ありと見て心を盡くす者なく、有るは甚之助殿と我れ計なる不憫しさよ、いざや此心筆に言はして、時機よくは何處へなりとも暫時伴なひ、其上にての策は叉如何様にもあるべく、よし一時は陸奥の名取川、清からぬ名を流しても宜し、憚かりの世の中打割りて見れば、天縁我れに有つて此處に運びしかも知れず、今こそ一寒書生の名もなけれど、やがては令嬢をも幸幅の位置に据ゑて、不名譽の取り返へしは譯もなきことなり、扨も濱千鳥ふみ通ふ道はと夜もすがら筆を握りしが、もとより蓮葉ならぬ令嬢の、殊に我れ庭男などに目の付く筈なければ、最初より艶書と知りては、手に觸れ給ふか否か其處まことに危ふし、如何にせんと思案に苦みしが、夫れよ、人目にふるゝは何の道おなじこと、何も度胸と半紙四五枚二つ折にして、墨つぎ濃く淡く文か有らぬか書き紛らはし、態と綴ぢて表紙にも字を書き、此趣向うまくゆけかしと明くるを待ちけるが、人しらぬこそ是非なけれ、此處は隣りざかひの籔際にて、用心の爲にと茅葺の設けに住まはする庭男、扨も扨も此曲者とは。 日影うらうらと霞みて朝つゆ花びらに重く、風もがな胡蝶の睡り覺ましたきほど、静かなる朝の景色、甚之助子供ごゝろにも浮き立て、何時より早く庭にかけ下りれば、若様、と隙かさず呼びて、笑顔をまづ見する庭男に、其まゝ縋りて箒木の手を動かせず、悟助お前は畫がかけるかと突然に問ふ可笑しさ。 畫もかきまする歌も詠みまする騎射でも打毬でもお好み次第と笑へば、夫ならば畫を描きて呉れよ、夕ベ姉様と賭をして、これが負ければ僕の小刀を取られる約束、夫れは吾助のことからにて、僕は吾助に畫が描けると言ひしを、姉様はかけまじと言ひたり、負けては口惜しければ姉様が驚ろくほど上手に、後と言はずに今直に畫きて呉れよ、掃除などは爲ずとも宜しとて箒木を奪へば、吾助少し困りて、描きてはあげまするが今は少し、後に吾助の部屋へお出なされ騎馬武者をかきて参らせん、夫れとも山水の景色にせんかと紛らせば、嫌、嫌、嫌、今でなくては何でも嫌なり、後になぞと言はゞ其うちに僕は負けて、小刀を取られるから嫌、どうぞ是非今直に描て呉れよ、紙や筆は姉様のを借りて來ベし、と箒木を捨てゝ欠け出すに、先づお待なされと遽たゞしく止め、直ぐと仰しやれば是非なけれど、下手に出來なば却りて姉様に笑はれ、若様の負と言ふ物なり、斯うなされ、畫はゆるゆると後日の事になし、吾助は畫よりも歌の名人にて、田舎に居りし時は先生なりし故、其和歌を姉様にお目にかけて驚かし給へ、夫こそ必らず若様の勝に成るべしと言へば、早く其歌を詠めとせがむに懐中より彼の綴ぢ文を出し、是れは極大切の歌にて人に見すベきでは無けれど、若様をお勝たせ申たく、他の人に内證にて姉様ばかりに御覧に入れ給へ、早く、内證で、姉様にお上げなされ、と三つ四つに折りて甚之助の懐中に押いれしが、無心の處何とも氣づかはしく、落さぬやうに人に見せぬ様にとくれ/\"呉々をしへ、早くお出でなされと言へば、兩手に胸を抱きて一心に駈け出す甚之助、お落しなさるな、と呼びもならず、俄かに心付て四邊を見れば、花に吹く風我れを笑ふか、人目はなけれど何處までも恐ろしく、庭掃除そこそこに唯人に逢はじと計り、敏これほどの小膽とも思はざりしを。 我が思ふ人ほど耻かしく恐ろしき物はなし、女同志の親しきにても此人こそと敬ふ友に、さし向ひては何ごとも言はれず、其人の一言二言に、耻かしきは飽くまで耻かしく、恐ろしきは飽くまで恐ろしく、塵ほどの事身にしみぬべし、男女の中もかゝる物にや、甚之助の吾助を慕ふは夫れとも異なりて淡き物なれど、我が好む人の一言重く、文を懐にして令嬢の部屋に來し時は、末の姉君此處にありて、お細工物の最中なるに、今見せては悪るかるべしと、情實は素より知る筈なけれど、吾助とも言はで遊び居けるが、甚様私しの部屋へもお出なされ、玉突して遊びますほどに、と面白げに誘ひて座を立つ姉君、早く去ねがしにはたはたと障子を立てゝ、姉様これ、と懐中より半ば見せ、吾助は畫も上手なれど歌の方が猶名人ゆゑ、これを御覧に入れさへすれば、僕が勝つと吾助が言ひたり、勝てば僕の小刀は僕のにて、姉様のごむ人形はお約束ゆゑ頂くのなり、さあ賜はれと手を重ねれば、令嬢は徴笑みながら、嫌、嫌、お約束は畫なるに歌にては嫌よ、ごむ人形は上げまじと頭をふるに、夫れでも姉様この歌は極大切のにて、人にも見せず落さぬ様に御覧に入れろと吾助の言ひしは、畫よりも良きに相違はなし、是非人形を賜はれとて手渡しするに、何心なく開らきて一二行よむとせしが、物言はず疊みて手文庫に納めれば、其顔 | |