樋口一葉の世界にようこそ  ここには樋口一葉の文学を知る上で貴重な作品が多数収録されています。 是非ご覧になり貴重な一様文学の神髄をお楽しみ下さい。
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収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく




 

 花ごもり
 樋口一葉
 
 
  其一
  本郷の何處とやら、丸山か片町か、柳さくら垣根つゞきの物しづかなる處に、廣からねども清げに住なしたる宿あり、當主は瀬川與之助とて、こぞの秋山の手の去る法學校を卒葉して、今は其處の出版部とやら編輯局とやらに、月給なにほど成るらん、静かに青雲の曉をまつらしき身の上、五十を過ぎし母のお近と、お新と呼ぶ従妹いとこの與之助には六歳おとりにて十八ばかりにや、おさなきに二タ親なくなりて哀れの身一つを此處にやしなはるゝ、此三人ぐらし成けり、筒井づゝの昔しもふるけれど、振わけ髪のおさなだちより馴れて、共に同胞なき身の睦ましさ一トしほなるに、お新はまして女子の身の浮世に交はる友も少なければ、與之助を兄の様に思ひて、心やすく嬉しき後ろだてと頼み、よし風ふかば吹け波たゝばたて與之様おはしますほどはと拠りかゝれる心の憐れに可愛く、此罪なく美つくしき人をおきて、いさゝかも他處に移る心のあらんは我れながら宜からぬ業と、與之助が胸に思ふことあり、八歳の年より手鹽にかけたれば、我が親族みよりにはあらねどお近とても憎くはあらで、同じくは願ひのまゝに取むすびて、二人が嬉しき笑顔を見、二人が嬉しき素振を眺め、我れも嬉しき一人に成りて、すべての願ひ、望み、年来としごろむねに描きし影を夢なりけりと斷念おもひきり、幾ほどもなき老らくの末を、斯くて此まゝやさしき婆々様に成りて送らぱや、さらばお新が喜びは如何ばかりぞ、與之助とても我れをつらしとは思ふまじけれど、あはれ今一方の人の涙の床に起臥して、悲しき闇にさまよふベきを思へば、いづれ恨みの懸かるべきは我れなり、天より降り来たりし如き幸福の眼のまへに沸き出でたるを取らで、はかなき一ト筋の情に引かるれば、恨みは我れに残りて、得がたき幸福は天の何處にか行きさるべし、與之助の女々しく未練なるは弱年としわかのならひ、見る目の花に迷ひて行末の慮なければなるを、これと同心ひとつに成りて我れさへに心よはくば、辛き浮世になりのぼる瀬なくして、をかしからぬ一生を塵の中にうごめかんのみ、親子夫婦むつましきを人間上乗の樂しみと言ふは、外に求むることなく我れに足りたる人の言の葉ぞかし、心は彼の岸をと願ひて中流に棹さす舟の、寄る辺なくして彼{波}にたゞよふ苦るしさは如何ばかりぞ、我れかしこしと定めて人を頼まぬ心だかさは、ふと聞きたるにこそ尊とくもあれ、遂に何ごとを為すべき塲處も無くして、玉か瓦か人見わけねば、うらみを骨に残して其の下に泣くたぐひもあり、今の心にいさゝか屑ぎよからずとも、小を捨てゝ大につくは恥とすべきにも非ず、此ごろ名高き誰れ彼れの奥方の縁にすがりて、今の位置をば得たりと聞ゆるも多きに、これを卑劣さもししきことゝ誹るは誹るものゝ心淺きにて、男一疋なにほどの疵かはつかん、草がくれ拳をにぎる意気地なさよりも、ふむべき為のかけはしに便りて、をゝしく、たけく、榮えある働を浮世の舞台にあらはすこそ面白けれ、お新がことは瑣細なり、與之助が立身の機は一ト度うしなひて叉の日の量り難きに、我れはいさゝかも優しく脆ろく通常なみ一とほりの婦女をんな氣を出だすべからず、年來馴れたる中のたがひに思ふ事も同じく、瑕なき玉のいづれ不足もなき二人を、鬼とも成りて引分る心は、何として嬉しかるべきぞ、我れになしても思ひしる、お新が乙女心に何ごとの思ひもなくて、はるかに嬉しき夢を見つゝ、與之助をば更らなり、我が内心に何者の住めりとも知らで、母が懐中ふところに乳房をさぐるが如き風情の、たちまちにして驚き覺めたらん時は、恨みに詞の極まりて、泣くに涙も出でざるべし、さても浮世は罪の世の中よな、汲むにあまれる哀れの我が心一つよりこそ、愁ひの眉を笑みにかへて和風こゝに通ふの春色けしきをも見らるべけれど、我が瀬川の家の為に、與之助が將来ゆくすゑの為に、時の運の我が親子を迎ふるを見て、知りつゝ我れは仇になりて、可愛き人を涙の淵に落すぞかし、されどもお新はお新の運ありて、與之助に連れ添ふ一生の嬉しき願ひはこゝに絶ゆるとも、さるべき縁にしたがひて、さるべき幸福の廻ぐりも来たりぬべきに、我れはお新がことを思ふべきに非ず、可愛しとても、いぢらしとても、振かへりて抱きあぐるは只暫時の心やりにて、遂ひに右左り分つ袂の宿世なりけるを、我が一日の情は與之助に一日の未練をまさせて、今一方の入に物思ひの數を添へつゝ、其二タ親が闇に迷へる悲しみを増さするより外に、功は露ほどもあることならねば、よし鬼ともなり蛇ともなり、つれなく憎くき伯母になりて、與之助が心の彼方に向ふべき様あつかふは我が役なり,嬉しき迎ひは我が足もとまで來りけるものをと、お近は瑞雲の我が家の棟に棚引ける如き想像おもひにかられて、八字の髯に威嚴そなはる與之助が、黒ぬり馬車に榮華をほこる面かげまで、あり/\と胸のうちに描かれぬ。
 
  其二
 
  世の人よりは柔らかに穏かすぎたる良人を持ちて、萬事にもどかしく歯がゆかりし年月も、流石女子の我が一存をふるひ難くて、空しく胸のうちに納めたりし思ひは、中々に消えんともせず、ともすれば燃え出でゝ押へ難きほのほに身をも焼くめり,お近が願ひは不二の嶺の上もなく立のぼれるに、身は夢の望に交れる如く、我れ同列の人々より見れば、やさしく温順に勉強家の聞えさへ有る子を持ちたるが上に、姪とはいヘどこれも子にひとしきお新が、朝タをいたわり仕へて、行々は樂隠居さまの浦山し身の上ながら、思ひあがれる心には、此楽しみの如何ばかり小さく、とるに足らぬ事に覺えて、我が膓より出でたる様にもなく、與之助が世間一ト通りの働きをなしつつ、世に抜けいでたる考へのあらぬさへ恨めしく、望みは高くせよ、願ひは大きくせよ、落ちて流れて行水の泡となるとも、天命なれば是非もなし、垣の瓢のぶらぶらとして卯の毛の先きの疵もつかで五十年の生涯を迭りたりとて、何ごとのおかしさか有るべき,一人に知らるべき事は百人に、百人に知らるべき事は萬人の目の前に顯はして、不出來も失敗しつぱいも功名も手柄も、對手あいて多数おほくに取りて晴れの場所にて爲すぞよき、衆人ひとの讀むべき書物ほんをよみ、衆人ひとのいふべき事をいひ、衆人の行ひたるあとを踏んで、糸もて操らるゝ木偶のやうに、我が心といふものなく、意氣地なくつまらなく、あやまちもなく誹りもなきは男の身として本意にては有るまじ,事に臨みては母ありとも思ふべからず、家ありとも思ふべからず、取るべき道の重大なるに寄りて進み給へと、これは平常つねなりけり
  花にうく露の戀とは何ぞ、をかしやと言ひ消すべきお近が、與之助故に命とこがるゝ人の、哀れ玉緒のたえだえになど、取次ぎが言葉のかるしげなるを受けて、此頃の明け暮れ思ひを砕くに理由わけあり、花ちらす吹雪の風は此處に憂からねど、嬉しき使ひは此戀これにのりて來にけり、父は有名の某省次官どの、家は内福の聞え高き、田原何某が愛女と傳たへたるにこそ。
  移りゆく人の心に傲らはぬ花の、今を春べと時しり顔にほゝ笑みそめし垣根の梅の一と枝ふた枝を折りて、お新はむつましき手ならひの師のもとへ清書の直しを請はんとて、伯母にも與之助にも挨拶しとやかに出で行しのち、輪にふく煙草のむすぼゝれた思ひにお近は茶の間の火鉢をはなれて,三畳の小座敷に何の書物なるらん又{文}机の上にくりひろげしまゝ、梅が香薫る窓の外をながめて讀むとも見えぬ與之助が傍に、炭{灰}がちの火のうそ寒き火鉢をかき起しつゝ、自から持ち來し座蒲團に悠然ゆう/\と坐をかまへて、物いひたき景色は、例の夫れなるべしと、き聞かぬほどより五月蝿しの素振あらはるれば、與之助、そなたはまだ子供のようと少し笑ひて身を進ませ、思案はまだまとまらぬかの,言うは汝の胸一つにして、詞に否と應との二つなるのみなるを、何れにとも定めて、母が胸をも安めては呉れぬか、親とても差圖はなすまじき縁のことなれば無理にも、とではなし、否ならば否にて、誰れに遠慮の入るでもなければ、決然きつぱりといふて宜さそうなもの、母は何れに好悪の念もなく、お新は稚きより手元には置きたれど、末の松山何とちかひの有るでも無ければ、これを取分けて可愛しとにも非ず、まして田原の娘は逢しこともなく見し覚えも無きに、これに加擔人して是非にも嫁にと願ふ道理はなし,唯可愛く大事に行末までを案じて、明け暮れ胸を痛め思ひになやむは汝が其身一つぞや、父様はやくなくなり給ひしより、知れるが如く親族とても悪臭にほひに寄る青蝿の様に、追ふがうるさきほどの人々なれば力になる者とてもなく、あはれ思ひは雲井にまで昇れど、甲斐なき女の手に學士のな稱號をも取らせかねて、猶すくなからぬ借財さへ身にまつはれる苦るしさ,かくて汝の行末をおもへば,嬉しき夢は見る夜すくなくして、睡りがたき宵々の老ては殊につらき物ぞよ,されば田原がことの果敢なき筋より出でゝ、媒のひとも我が身には嬉しからねど、運は目に見えぬ處にありて、天の機は我々が心に量り難きに、年來ねがひたる念慮おもひの叶ふべきすがかと、母が拙なき胸に感じたればこそ言ふなれ,無理とは覺すな、もとより汝が爲を思ひてなれば嫌といはゞ夫れまで,人々の心々一つならねば、浮かべる雲の危ふきにのぼらんより、八重葎にさし入る月を肘まくらに眺め、我れ一人たのしくは夫れにて事の足りぬべしとならば、母もこれより其心に成りて、高きと願ひし今までを夢とあきらめ、二タ間三間の借家を天地と定めて、洗ひすゝぎに、襤褸ぼろつゝくりに、老ひの眼かすむ六七十を、まごの守りして暮らさんも宜し,いかにや與之助、汝が胸はと静かなれども底に物ある母が詞の、ぢり/\と肝にもさはれば、をかしき仰せ、とんと私しには呑こめませぬ、お手一つにて育だちたる厚恩のなみならぬを知れば、及ばぬ心に鞭てもと、これは朝タの願ひ,さりながら、内縁にすがりて舅の袖の下にかくれ、これを立身のかけはしになどは懸けても思ひ寄りませぬこと、未熟なれども我がことは我れでなすべく、此綱なければ世に立たれぬかの様な、心配は御無用に御坐りますと決然こたゆれば、母は其顔をじつと眺めて、さればよなと歎息の聲をもらしぬ。
 
  其三
 
  それは眞實か、さても若き了簡よな,さればこそ母が行末を案じて、亡き後までを氣遺ふは夫ゆゑ,うき世を机の上の夢に見て、重き物は六寸の筆より外もたず、書物によまれて我が心なき人は夫れも道理か、其心にて押ゆかば、事成就の暁は幾つまづきの後なるべき、東照宮様御遺訓に重荷を負いて遠路を行くが如しと有りけれど、恐らくは半道も三分一もえ行かぬほどに投げ出して閉口せねば成るまじ、我れは我れによりて事を爲すとは、さても立派の言の葉ながら聞けよ與之助、汝ほどの學識ものしりは廣き東京にやこには掃くほどにて、塵塚の隅にもごろごろと有るべし、いづれも立身出世の望みを持たぬはなく、各自めい/\ことはかはりて、出世の向きもさま"/\種々なるべけれど、名を揚げ家をおこしてなどゝ、これを誰しも基本どだいなり、汝の思ふ如く一筋縄に此望みの叶ふものとせば、世は悪る者のす巣成りて、闇夜のはち合せ危ふかるべきを、十分が九分は屑にして、心寛くも手段の上手なる人が其一分の利は占むるぞかし、小と大との差別を知りたらば、田原が聟となるを恥とは言ふまじき筈、其袖の下にかくれて、これに操らるゝと思へば口をしくもあれ、我が爲の道具につかひて、これを足代にとす爲れば何の恥かしきことか、却りて心をかしかるべし,誹はほまれの裏なれば、群雀むらすゞめの囀りかしましとても、垣のもとの諸聲は天まで届かず、雲をけり風にのる大鵬の、嬉しきは此姿ならずや、近くたとへを我が女同志どしにても見よ、彼の田原殿が奥方は京の祇園の舞妓とかや,氏ははるかに劣りし人とか,通常普通なみ/\の娘にて過ぎなば、前だ垂れたすきの縁をはなれず、井戸端に米やかしぐらん、勝手元に菜切庖丁や握るらん、さるを卑賎さもしき営業なりはひより昇りて、あの髭どのを少さき手の内に丸め奥方とさへ成り澄ませば、そしりは物のかげに隠れて名は公の席にも高く、田原夫人と並らべ書けるが、公侯伯子の誰夫たれさにも劣る事か,慈善曾、音樂曾、名は聞きながら見ることの難き人さへ有るに、斡事とかや何とかや、それは未だ少さし、事ある時はおほけなき御前にも出るとぞ,これを我等が上に比らぶれば、空に流るゝ銀河あまのかはと、つちに埋るゝ溝川との違ひあり,少さき貞婦孝女は遂いに顯はるゝ事なくして、うき世の巾利は此たぐひの人なるぞや,なき人の上に批點もいかゞなれど、汝が心根に似たりける父様の、我れが我れがと思しめしは奇麗なりしが、人をも世をも一包みにする量なければ少さき節につながれて、我れと我が身を愚になしつゝ,夫れはまだしも,先にも我が身が言ふ如く,遇はぬ浮世に何事の望みも捨てゝ,苔に雨きくたのしみを,茅が軒ばに味ひたらば、別に長閑けき月日ありて、夫れは又其筋に面白かるべけれど、かなしきは生にゑの人の事ぞかし,すき間もる風霜夜さむけく、薄き衣に妻子の可愛さしみ"/\と身にしみれば、一日半夜やすらけき思ひはなく、身はけがれざる積りにてきたなき人の下に使はれ、僅かの月給に日雇にひとしき働きをして、長からぬ生涯を月もなく花もなく終り給ひしは汝とても知れるが如し,されば汝が心根の清く尊く美くしく立派には聞えたれど、仕種は父様の二の舞にて、笑止や少さき結構人にて終りやせん,と言はゞ堪へぬ心に腹もたつべし,母は汝が爲をおもへば、怒る、はらたつ、何の憚りはせぬぞや,よしや汝が望みの判事試験に、首尾よく及第して奏任のはしに列らなりたり共、田舎まはりに幾年を渡り、猶その上に種々の規則にしばらるれば、花の都に名を擧げて世間の耳目を集むるほどの事は、保證の印のしかとおして、無しと言ふとも誤りは有るまじ,一生を斗量はかりにかけ尺度ものさしにはかり、これほどゝ限りある圖の中に、身は目に見えぬ縄につながれ、人の言葉を守り人の命令さしづに働き、功は後の世に殘る事もなく、死しては知己に吊はれ子孫に祭らるゝ夫れ丈を差別にして、さのみ犬猫と變りもなく、夢と暮し烟りと消え、夫れにて汝は満足なか,夢ならば彌勒の世までを夢につゝんで、嘘も眞實も偽りも、美しきも醜きも一呑みに呑みつくして、此世の中に高く飛ぶ心は無きか,いかにぞや與之助、返事のなきは不承知か,口をしや我が思ふ半をも解し得ず、汝はまだいさゝかの情に引かるゝと見えたり、其愚かしき性根とは知らで思ひを砕きしは我があやまりよ、今は何ごとも口入れなすまじければ萬づ汝の勝手たるべし,いな、お新殿のめゝしさならずとは言譯、これに引かる心ならずは、何時か一度は持つべき妻の、口約束ばかり何の大事かは、田原に不足は言ふまじき筈と責められて與之助、我れを白痴にしたりける母が詞と肝癪のむらむらと加へて、嫌で御座ります、田原もいやお新もいや、諸事萬事氣に入りませぬと、有りし昔の悪あがきに、剛情はりける時の面かげを其まゝ、折角のお近が談義は揉みくちやにしてのけられたり。
 
  其四
 
  これは瀬川さま、ようこそと玄關に高き婢女はしたが聲を、耳とく聞きて、膝にねぶれる小猫をおろし、よみさしの繪入新聞そこの茶だんすの上にのせて、お珍らしや何風に吹かれ給ひてぞ,谷中の道はお忘れなされしかと存じましたに、と障子の内より美くしき聲をもらせば、西北か、但し南か、天氣豫報にも見えざりし曇りの何處やらに出來て、肝癪にもやもやの雲が沸きたれば、お辰様が扇の風にでも拂ひてほしく、お宿もとまで罷り出たる次第と、例に似ぬ與之助がをかしき詞に、お辰座をたちて迎へながら、大分御機げんで御座んすの、梅見のお帰途かへりか、橋本あたりのお名殘と見えまする,さりとはお土産もなしに御不心中やと笑へば、それ處の勢ひかと、與之助も笑ひて、さし出す友仙のふとんの素人めかぬを引寄せ火ばちの向ひ合せに坐をしめれば、ほんにお顔色もよからず、御不快か,但しは例のねゝ様が我まゝからの肝癩に、母様したゝか困らせ給ひて、お足の向くまゝ此方角へお越しなされしか,どの道うれしからぬお顔色と、圖ぼしをさゝれて其通りとも言ひかねけり。
  むかし覚ゆる嫗様の色はなけれど蔭ゆかしき美人の末の四十女、切髪姿に被布の好みも何處やら酒落て、良人なき後の世渡りは昔し覚えの三味も流石とはゞかりて、月琴の師と聞くぞをかしき、お辰は長羅竿に一服すひて與之助に手渡しつ瀬川さま私しの言ふは當りましたろ、よい加減になされませや,さもなくてさへ母様の御苦労は山ほどなるに、よい年しての大供様が、髭くひ反らして甘ゆるは可愛けれど、すねるぢれる、何で御坐ります、お腹が立たば寝かしてお置きなされ、と片頬に笑みてたしなめれば、異見は眞平、よう/\逃げのびて、此處で二の矢は御免蒙むりたし,理屈は捨てゝ陽氣におもしろく、我が平常は知り抜き給ふお辰様が匕加減に、嬉しくをかしと思ふ話を聞かせ給へといへば、夫れは造作もなきこと、春さく堤の花よりも美く、秋てる中洲の月よりも清く歌舞の菩薩が手を盡くす物の音も及ばねば、お前様がお好きの書や歌や何の何の、見れば嬉しく、聞けば床しく、ぢれも肝も悉皆みなおさまりて、思ひ出してさへ魂のふらつく様な事が御座んす、とは又何ぞと問へば、身邊あたりの新聞をつきつけて、夫れ此處に、と指さすは新の字、これは解らぬこと、禅僧が問答でもあるまじと笑へば、お辰眞面目に、眞言の秘密で御坐んすぞえ、其字を一ト目御覧じるよりお胸に現はれる影は可愛らしき島田髷にじやばらの結び下げ、兄様此字は何と讀みますると御本を前にかしこまりしお姿が見えます筈、何と無類るゐにお嬉しかろと、言ひ終りておほゝと笑へば、馬鹿なと一言くるしげに笑ふ。

  

  
 

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  樋口一葉収録作品 (アイウエオ順)
  【ア行】
暁月夜 (1893年) 
あきあはせ (1896年) 
雨の夜 (1895年) 
うつせみ (1895年) 
うもれ木 (1892年) 
うらむらさき (1896年) 
大つごもり (1894年) 
【カ行】
經つくえ (1892年) 
琴の音 (1893年) 
この子 (1896年) 
【サ行】
五月雨 (1892年) 
さをのしづく (1896?年) 
十三夜 (1895年) 
すゞろごと (1896年) 
【タ行】
たけくらべ (1895年) 
たま襷 (1892年) 
月の夜 (1895年) 
【ナ・ハ行】
にごりえ (1895年) 
軒もる月 (1895年) 
花ごもり (1894年) 
反古しらべ (1896年) 
【ヤ・ワ行】
闇櫻 (1892年) 
暗夜 (1894年) 
雪の日 (1893年) 
ゆく雲 (1895年) 
別れ霜 (1892年) 
わかれ道 (1896年) 
われから (1896年)