樋口一葉の世界にようこそ  ここには樋口一葉の文学を知る上で貴重な作品が多数収録されています。 是非ご覧になり貴重な一様文学の神髄をお楽しみ下さい。
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収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく




 

総ページ数 2

 五月雨
 樋口一葉
 
 
  一
 
  池に咲く菖蒲あやめかきつばたの鏡に映る花二本ふたもとゆかりの色のうすむらさきか濃むらさきならぬ白元結しろもとゆひきつて放せし文金ぶんきん高髷たかまげも好みは同じ丈長の櫻もやう淡泊あつさりとして色を含む姿に高下かうげなく心に隔てなくかきにせめぐ同胞はらからはづかしきまで思へば思はるゝ水と魚の君さま無くは我れ何とせんイヤわれこそは大事なれと頼みにしつ頼まれつ松の梢の藤の花房かゝる主従しうじゆうの中またと有りや梨本なしもと何某なにがしといふ富家ふうかの娘に優子と呼ばるゝ容貌きりやうよし色白の細おもてにして眉は霞の遠山がた花といはゞと比喩たとへを引くもこちたけれど二月ばかりの薄紅梅あわ雪といふか何か知らねど濃からぬほどの白粉しろいものに玉蟲いろの口紅を品よしと喜こぶ人ありけり十九といへど深窓しんそうの育ちは室咲むろさきも同じこと世の風知らねど松風の響きは通ふ爪琴つまごとのしらべに長き春日を短しと暮らす心は如何ばかり長閑のどけかるらん頃は落花の三月盡じんちればぞ誘ふ朝あらしに庭は吹雪のしろたへ流石さすがに袖は寒からで蝶のうらの麗朗うら/とせし雨あがり濡椽ぬれえんさきに飼猫のたま軽く抱きて首玉の絞りはなし結びゆるものは侍女こしもとのお八重とて歳は優子に一ツ劣れど劣らず負けぬ愛敬の片靨誰かたえくぼれゆゑ寄する目元のしほの莞爾につこりとして手を放しつ不圖見返ふとりて眉を寄せしが又故ことさらにホヽと笑つて嬢さま一寸と御覧遊ばせこのマア様子の可笑しいことよと面白げにいざなはれて何ぞとばかり立出いづる優子お八重は何故に其様なことが可笑しいぞ私しには何とも無きをと惱ましげにて子猫のヂヤレるは見もやらで庭を眺めて茫然たり嬢さま今日もお不快こゝろわるう御坐ございますか左様さうも無けれど何うも此處がと押して見する胸の中には何がありや思ふ思ひを知らじとかことばをかへて八重やお前に問ふことがある春につきての花鳥で比べて見て何が好きぞさても變つたお尋ねそれは心々でも御坐いませうが歸鴈きがんが憐れに存じられますりとてはなことぞ都の春を見捨てゝ行く情なしがお前は好きか。憐れといへば深山みやまがくれの花の心がさぞかしと察しられる世にも知られず人にも知られずさきて散るが本意であらうか同じ嵐に誘はれても思ふ人の宿に咲きて思ふ人に思はれたら散るとも恨みは有るまいもの谷間の水の便りがなくは流れて知られる頼みもなしマァどの位悲しからうとらぬ事ながら苦勞ぞかしとて流石さすがに笑へばテモ嬢さまは花の心をく御存じ私しが歸鴈を好きと云ふは我身ながら何故か知らねど花の山の暁月夜あかつきづきよさては春雨の夜半の床になきて過ぎる聲の別れがしみ/\”と身にしみて悲しい様な淋しいやうな又來る秋の契りを思へば頼母たのもしいやうにもあり故郷へ歸るといふからして亡き親の事が思はれますと打しほるればそれ道理ことわりわたしでさへも乳母の事は少しも忘れず今も在世いたなら甘へるものをと何ぞにつけて戀しければ子の身では如何いかばかり心ぼそくも悲しくも有らうなれど及ばずながら私しは力になる心姉と思ふてよと頼むは可笑しけれど歳上なれば其約束ぞ何時も/\云ふことながら私しは眞實ほん同胞はらからと思ひますと慰められて嬉しげに御縁あればこそ親どもばかりか私しまでめぐり廻つて叉の御恩海とも山とも口には如何どうも申されねどお前さまのおさしさは身にしみて忘れませぬ勿躰もつたいなけれどお主様しうさまといふ遠慮もなくしんざんの身のほども忘れて云ひたいまゝの我儘ばかり兩親ふたおやの傍なればとて此上は御座いませぬりながらくやしきは生來せいらいの鈍きゆゑ到底とても御相談の相手にはなされて下さる筈もなし別ものに遊ばすと知りながらお恨みも申されぬ身の不束ふつゝかが恨めしう存じますとホロリとこぼす膝の露を優子不審いぶかしげに打まもりて八重は何が氣に障つてか思ひもよらぬ怨み言つもりて見よかし何のへだててで隠しだてをするものぞ母さまにさへ申さぬこともひに話さぬ時はなきを今日に限つてそのやうな事いはれる覺えは何もなけれどマァ何と思ふてぞといふ顔しつと打仰ぎてそれ/\々それが矢ツ張りお隔て何故なぜその様におくし遊ばす兄弟とおつしやつたはお偽りか、偽りでは無けれど隠くすとは何を、デハ私しから申しませうやまがくれの花のお心と云ひさして莞爾につことすれば、アレ笑ふては云はぬぞよ
 
  二
 
  思ひ入る路は一ト筋なれと夏引なつびきの手引きの糸の亂れぐるしきは戀なるかや優子元來才もとよりはじけならず柔和をとなしけれど悧發りはつにて物の道理ことはりあきらかに分別わきまへながららきは晴れぬ胸の雲にうつ/\として日を暮らすをお八重しかぞと見て取りぬ我れも思ひの無き身ならねばごとなりとも悲しきを假初かりそめならぬ三世の縁おなじ乳房の寄りし身なり山川遠さんせんく隔たりし故郷に在りし其の日さへ東の方に足な向けそ受けし御恩はかく/\々此しか/\”々母の世にては送りもあえぬに和女そなたわすれてなるまいぞと寐もの語に云ひ聞かされ幼な心の最初そも/\より胸に刻みしおしうの事ましてや續く不仕合に寄る方もなき浮草の我れ孤子みなしごの流浪の身の力と頼むはほかになし女子をんなだてらに心太く都會みやこの地へと志ざし其目的そのには譯もあれど思ひはいすかのはしも無く尋ぬる人を引かへて尋ねぬならねど身に恥づれば我れとははれぬおしうのもとへ又見出されて二度の恩あるが中にも取分けて嬢さまの御慈愛おいつくしみは山のうちの峯たかきが上も高く海の中の沖深きが上も深しお可愛や誰れびとのやうに思しめして御苦勞なき身の御苦勞やら我身新参しんざんの勝手も知らずお手もと用のみ勤めれば出入のお人多くも見知らず想像には此人かと見ゆるも無けれど好みは人の心々何がお氣にそみしやら云はで思ふは山吹の下ゆく水のわき返りて胸ぐるしさもさぞなるべしお慎み深さはさることなれど御病氣にでも萬一にしならば取かへしのなるべきならずぬし誰人たれびとえぞ知らねど此戀なんとしても叶へ参らせたし嬢さまほどの御身ならば世界に苦もなく憂ひもなく御心安くあるべき筈をさりとては叉苦の世の中やと我身に比べて最憐いとおしがり心の限り慰められ優子眞實たのもしく深くぞ染めし初花はつはなごろも色にはいでじとつつみしは和女そなたへの隔心かくしんならず有様は打明てと幾たびも口元までは出しものゝ恥かしさにツイ云ひそゝくれぬ和女そなたはまだ咋日今日とて見参らせし事も無きならんが婢女をんなどもは蔭口にお名は呼ばずて光氏みつうじさまといふとかやお姿は察せよかしそれに引かれてゞは無けれど彼の人はとゝさま無二の御懇意とて恥かしき手前に薄茶一服参らせそめしが中々の物思ひにて帛紗ふくささばきの静こゝろなく成りぬるなりさてもお姿に似ぬ物がたき御氣象きしようとや今の代の若者に珍らしとて父様とゝさまのお褒め遊ばす毎に我がことならねどおもて赤みて其坐にも得堪えたへねど慕はしさの數はまさりぬりながら和女そなたにすら云ふは始めて云はぬ心は描かぬ畫もおなじ事御覧じ知る筈もあらねば萬一もしやの頼みも無きぞかし笑はるゝか知らねども思ひそめ最初はじめより此願ひ叶はずは一生一人で過ぐす心憂きに送る月日のほどに思ひこがれて死ねばよし命が若しも無情つれなくて如何にるはしき夫人おくがたむかへ給ひぬとも愛らしき児生ちごれ給ふとも聞く身のつらさがおもはるゝぞとてほろ/\と打泣けばお八重かなしく身を寄せてお前さまは何故そのやうに御心よわい事仰せられるぞ八重は元來もとより愚鈍ぐどんなり相談はなしてからが甲斐なしと思しめしてか馴れぬ御使ひも一心しんは一心先方かなたさまどの様な御情しらずで有らうとも貫かぬといふ事ある様なし何ともしてお望み屹度きつとかなへさせますものを御内端おうちはすぎてのお物思ひくよ/\ばかり遊ばせばこそ咋日今日は御顔色おいろもわるし御病ひでも遊ぱしたら御兩親おふかたさまは更なる事なり申すも慮外りよぐわいながらいもとおもふぞとての御慈愛に身は姉上をもうけし心お前さま大切なほどお案し申さずには居りませぬをいまはしや何ごとぞ一生一人で世を送るの死んで思ひをがれたしのと突きつめた御心に必らずお成り遊ばすなとなだめる身さへ眼はうるみぬ、堪忍かんにんせよかし和女そなたにまで苦をかけてあらぬ思ひに心を盡くすが我が身ながら口惜しきなり左りとてもの人の事斷念あきらめがたきは何ゆゑぞ云はで止まんの決心なりしが親切なことばきくにつけて日頃の愼みもなくなりぬとやう/\々せまりくる娘氣むすめぎに涙に咽びて良時やゝありしが、八重さぞ打つけなとあきれもせんが一生の願ひぞよ此心榑へては給はるまじや嬉しきお返事聞きたしとはゆめ/\々思はねど誰れ故みじかき命ぞとも知られて果てなば本望ぞかしと打しほるれば、又しても其様なこと御前さまこれ/\々とお傅へ申さば好きお返事は知れた事なり最早もうくよ/\とは思しめすな、や/\それは八重が知らねばぞ杉原さまはそのやうな柔弱にうじやく放埒はうらつなお人で無ければ申出してからが心配なり不埒者いたづら者と御怒りにならば何とせん、それは餘りのお取こし苦勞岩木の中にも思ひのなきかは無情つれなき仰せの有る筈なしさても御戀人は杉原さまとやお名は何とぞ、三郎さまと申のなり此頃來給このごろひしは和女そなた丁度不在るすの時よ一ト足違ひに御歸宅ゆゑ知らぬのは道理と云ひかけてお八重の顔さしのぞき此願ひ若し叶はゞ生涯の大恩ぞかしくどうは云はぬ心は是よと合はす手に嬉しき色はあらはれたり
 
  三
 
  雲雀のあがる麥生むぎふなゝめに見渡しながら岡のすみれを摘あらそひし昔しは何のか有りし野河の岸に菊の花手折たをるとて流れ一筋かち渡りし給ふ時我はるかに歳下の身のコマシャクレにも君さまの袂ぬれるとて袖襷かけて参らせしを如何に人にも笑はれけん思へば其頃が浦山うらやまし君さま東京へ歸給ひし後さまぐ續く不仕合に身代は亂離らり骨廢こつぱいあるが上に二タ親引つゞきての病死といひ憂きこと重なる神無月袖かみなづきにもかゝる時雨空に心のしめる我れを取らへて郡長のせがれづらが些少いさゝかの恩鼻にかけての無理難題やり返して遣りたけれど女子をなごの身はもならず柳にうけるをきことにして金やらんせうになれゆく/\々は妻にもせんと口惜しき事の限り聞くにつけても君さまのことが懐かしく或る夜にまぎれて國を出でつやう/\》々東京こゝへは着きし物の當處あてどなければ行衛更ゆくえに知るよしなく様々の憂き艱難も御目にかゝる折の褒められぐさにと且つは心に樂しみつゝ賤しい仕業しわざも身は清し行ひさへがれずばと都乙女の錦の中へ木綿衣服きもの菅笠すげがさ脚袢きやはんはづかしや女子をんなの身不似合のくだもの賣りも一重に活計みすぎの為のみならず便りもがな尋ねたやの一心なりしがゑにしあやしく引く方ありて不圖呼ふとび入れられし黒塗塀お勝手もとに商ひせし時後にて聞けば御稽古がへりとや嬢さまのしたる車勢ひよく御門内へ引入るるとて出でんとする我と行違ひしが何に觸れけん我がさしたる櫛車の前にはたとおちしを知らず曳しかばなど堪るべき微塵になりて恨みを地に残しぬ嬢さま御覧じつけて氣の毒がり給ひ此そこねたるは我身に取らせよ代りには新らしきのを取らすべしとの給ひしかど元來落もとよりせしは我が粗忽そこつなり曳かれしも道理破損そこねしとて恨みもあらずましてや代りをとの望みもなし是れは亡母が紀念かたみのなれば他人ひとに奉るべき物ならずとて拾ひあつめて懐にせしをいとゞしく御不愍ふびんがりさては親も無き人か憐れのことや先庭口まづより我が部屋まで來よ身の上も聞きたしとて連れ給ひぬ今こそ目馴めなれたれ御座敷の結構お庭のたゝずまひ華族さまにやと疑がひしは一に嬢さまの御言語容姿おものごしにも依りし物かそのお美くしき嬢さま御親切にも女子同志は互ひぞとて御優おやさしき御詞我おこともしきりに嬉しくて尋ぬる人ありとこそあかさゞりしがいろ/\々との物語に和女そなたの母御はかく/\々の人ならずやと思ひ寄らぬ御問ひ誠にかぞ何として御存しと云へば忘れて成るべきか和女と我れとは兄弟ぞかし我れは梨木の優なるをとて手を取りての御喜びさては母がを参らせたる君なりしか御目にかゝりし嬉しさに添へて落ぶれし身はづかしと打泣きしに榮枯えいこは時なるものを欺くことかはよろづは我れに委せよかし悪るき様にはなすまじければ今日より此處に身を落つけずや母様には我れ願はんとて放し給はず夫様おくさまも叉くれ/\”の仰せにそのまゝの御奉公都みやなれぬ身とて何ごとも不束ふゝつかなるを彼はかれこれは此と陰になりてのお指圖に古参の婢女ひとあなどらず昨日の我れ忘れし様な樂な身になりたるは嬢さまの御情一ツなり此御恩何として送るべき彼の君さまに廻り逢はゞ二人共々心を合せてお話し相手に成るべきをと何につけても忍ばるゝは又彼の人の事なりしが思ひきや嬢さま昨日今日のお物思ひ命にかけてお慕ひなさるゝぬしはと問へば杉原三郎どのとや三輪の山本しるしは無けれど尋ぬる人ぞと知る悲しさ御存じ無ければこそ召使ひの我れふし拝みてのお頼み嬢さま不憫いとしやと思はぬならねどの人何として取持たるべき受合ては立ちし物の此文このふみには何の文言もんごんどういふ風に書きて有るにや表書きのとき盤木わぎのきみまゐるとは無情つれなさひとへといふ事か岩間いはまの清水と心細げには書き給へどさても/\御手おてのうるはしさお姿は申すも更なり御心だてと云ひお學問と云ひ缺け處なき御方さまに思はれてやとはよもや仰せられまじ我れ深山育みやまちの身として比べ物になる心はなけれど今日までの憂き苦勞は何ゆゑぞ逢はんと思ふ夫一それツによろづの願ひをかけ置きしに今目の前に逢ふ日は來ても逢ふが悲しき事義じぎに成りぬ嬢さまの御恩は泰山たいざんの高きも物の數かはよしや蒼海そうかいたまさぐれと仰せらるゝともそれ違背ゐはいはすまじけれど我が戀人周旋とりもたんことどう斷念あきらめてもなる事ならず御恩は御恩これは是なりいつそお文取次いだるていにしてこのまゝになすべきかや/\それにては道がたゝず實はかく/\々の中なりとて打明けなば嬢さま御得心ごとくしんの行くべきか我こそはそれけれどれほどまでに思しめし入れたものらばと云ひて斷念あきらめのつく筈なし我身の願ひが叶へばとて現在お心知りながらそれもつらし是れも憂しと迷ひに心も夕暮の空お八重つくづくながむれば明日も晴日はれひ西にしかたのみくれなゐの雲たな引きぬ
 
  四
  
  男も女も法師もわらは容貌かほよきが好きぞとは誰れ色好いろこのみのことの葉なりけん杉原三郎と呼ばるゝ人面おもざし清らかに擧止優雅かにくからずたが目に見ても美男ぞと見ゆればこそは罪つくりなれ我ゆゑに人二人まで同じ思ひにくるしむ共いざやしらがきの若葉の露かぜに散る夕ぐれの散歩がてら梨本の娘病氣にて別荘に出養生でやうじやうとや見舞てやらんとて柴の戸おとづれしにお八重はじめて對面したり逢はゞ云はんの千言百言ちことももことうさもつらさも胸に呑みて恩とも言はず義理とも言はずわきかへる涙も人事にして御不おいとしや嬢さま此程よりのお煩ひのもとはと云はゞ何ゆゑならず柔和おとなき御生質たちとて口ヘとては出し給はぬほど猶さらに御いとほしお心は中々我が云ふやうな物にはあらずこのお文御覧ぜばお分りになるべけれど御前さま無情つれなきお返事もし遊ばされなばのまゝに居給ふまじき御決心ぞと見る目は如何につらからぬ事か久し振にて御目にかゝりし我身の願ひ是れ一ツなり叶へさせ給はば嬉しかるべきをとて取次ぐ文の思ひ切りても涙ほろほろ膝に落ちぬ義理といふもの世に無かりせば云ひたきこといと多し別れしよりの辛苦しんくは如何に或る時はあらぬ人にまられて身の遁ればの無かりし時操はおもし命は鷲毛がもうの雪の夜に刃手やいばに取りしことも有けり或時はお方衛ゆくゑたづねわびて恨みは長し大河の水に沈む覺悟もきわめしかど引れし後ろ髪の千筋ちすぢにはあらで一筋に逢ふといふ日を頼みにして今日までも過せし身なりと云ひたけれど嬢さまの戀も我が戀にも淺さ深さのあるべきならず我れまだ其事を口にせねば入譯御存いりわけじなきこそよけれ御恩がへしにはお望み叶へさせまして悦び給ふを見るが樂しみぞと我れを捨ての周旋とりもちなるをあだしごとは思ふまじるにても君さまのお心氣づかはしと仰ぎ見ればはしなくも男はじっと直視ながめゐたりハツと僻向うつむはぢ紅葉もみぢのかげるはし秋の山里にたけがりして遊びし昔しは蝶々髷の夢とたちて姿やさしき都風みやこふうたれに劣らん色なるかは愁ひを含めど愛らしき雨の撫子しほれて床し三郎の心何と知らねど優子の文を手にとりつ浅からぬお心辱かたじけなしとて三郎喜びしと傳えた給へほかならぬ人の取次こと更に嬉しければ此文は賜はりで歸宅きたくすべしとて懐中ふところに押入れつゝ又こそと座を立つに扨は嬢さまの心汲くみとり給ひてかと嬉しきにも心ぼそく立上る男の顔そと窺いてホロリとこぼす涕をくし嬢さまにもぞお喜び我身とても其通りなり御返事屹度きつとまちますと云えば點頭うなづきながら立出いづる廻り椽のきばの橘そでに薫りて何時いつしか月に中垣なかがきのほとり吹のぼる若竹の葉風さらさらとして初ほとゝぎす待べき夜となりやをらおりたつ後姿見送る物はお八重のみならず優子もへやの障子細目に明けて言われぬ心々を三郎一人すゞしげにゆく/\々吟ぎんずるからうたきゝたし
 
  五
 
  便りまつ一日ひとひ二日嬉ふたひしきやうな氣づかひな八重に遠慮は入らぬものゝ又言ひ出すかと思はるゝも恥かしくぢつと堪ゆる返事の安否もしやと思へば萬一もしやになるなり八重は大丈夫と受合へどそれは氣やすめの詞なるべしの文とても御受取になりしやならずや其場でそのまゝ御突おつき戻しになりたるを我れに力落させまじとて八重の繕ひて居るにはあらずやや/\八重として其様そのやうのことある筈なし人を疑がふは罪ふかき事なり一日二日待給へ好き御返事の参るはぢやうぞと言ひしに違ひは無かるべししさうならば何とせん八重は上もなき恩人なれば何ごとなり共氣に入ることして悦ばせたし歳は下なれど分別ある人とて言少なゝれば願ひはあるや望みはなしや知れ難きを何とせんさても人妻となりての心得は娘の時とはことなる物とか御氣に入らばけれど若しかれなば悲しき事よまづそれより覺束おぼつかなきはの文のお返事なり御覧にはなりたり共其そのまゝ押まろめ給ひしやらかへりて御機嫌をそこねもして愛想づかしの種にもならば云はぬにまさらさぞかし君さまこそ無情つれなしとも思ふ心に二ツは無し不孝か知らねど父様母さま何と仰せらるゝとも他處よそほかの誰れ良人に持べき八重は一生良人を持たずと云ふものから我が身とはおのづから異りて關係かゝはることなく心安かるべし浦山うらやましやと浦山るる我をば知らで吐息といきをもらしぬお八重はつく/有し日の事を思ふに男心の頼みがたさよ我れ周旋とりもちする身として事整とゝのふは嬉しけれど優子どのゝ心宜く見えたり三郎喜こびしと傅へ給へとは餘りといへど昔しを忘れ給ひしおことばなりトおもふは我が身のねたみにやお主様しうさまゆゑには身を殺して忠義を盡くす人さへ有るを我一人にて憂きをしのばゝ何處いづくも事なく納まるべきなり何氣なき嬢さまが八重や八重やと相談相手はなしに遊ばすを御恨み申は罪のほども恐ろしゝ何ごとも残さず忘れておしうさまこそ二代の御恩なれ杉原三郎といふお人元來もとよりのお知人しるひとにもあらずましてや契りし事も何もなし咋日今日逢しばかりかもおしうさまの戀人に未練のつながる筈はなし御縁首尾よく整のへて睦ましく暮し給ふを見るがめての樂しみなり我れは望みとて無き身なれば生涯この家に御奉公して御二タ方さま朝夕の御世話さては嬰子やゝさま生まれ給ひての御抱おだき守り何にもあれ心を責めて仕へんかそれは何としてもなる事ならずても角ても憂き世なれば人訪はぬ深山みやまの奥にかき籠りて松風に耳を澄まさばかるべけれどそれすらの人見捨てゝは入り難かるべしとてつく/\”と打歎けど人に見すべき涙ならねば作り笑顔の片頬かたほさびしく物案じの主慰めながら我れ先づ亂るゝねむなわの戀はくるしき物なるにや成るとは見えて覺束なき人の便りをまつとは云はず杉原さまはお廿四とやお歳よりは老けて見え給ふなり和女そなたは何と思ふぞとて朧氣おぼろげなこと云ふて見る心や流石さすがに通しけんお八重一日あるひ莞爾にこやかに嬢さまお喜び遊ばす事あり常てゝ御覧じろと久し振りのたはぶごとさりとは餘りに廣すぎて取り處が分らぬなりと微笑ばらば端を少し聞かし参らせんお前さま何より何よりお嬉しと思しめす事が有べしそれなりとと容易たやすくは言ひもせずそれぞとは知れど猶も知らぬ顔に八重がつねに似ぬことよ先づ云ふて聞かしてもさそうなと打怨うちゑんずれば其やうに御いそぎなされますなと打笑ひながらの君より御返事が参りしなり是がお嬉しからぬ事かと■かれてさゝやの根くわつと熱くなりつ胸とゞろかれて噛む袖の下にと置くしほぐさ俄には手にも取らぬをお八重察して進めつゝ取まかなひて封を切らすに文にはあらで一枚の短冊なりけり兩女ふたりひとしく見る雲形くもがた    

  

  
 

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  樋口一葉収録作品 (アイウエオ順)
  【ア行】
暁月夜 (1893年) 
あきあはせ (1896年) 
雨の夜 (1895年) 
うつせみ (1895年) 
うもれ木 (1892年) 
うらむらさき (1896年) 
大つごもり (1894年) 
【カ行】
經つくえ (1892年) 
琴の音 (1893年) 
この子 (1896年) 
【サ行】
五月雨 (1892年) 
さをのしづく (1896?年) 
十三夜 (1895年) 
すゞろごと (1896年) 
【タ行】
たけくらべ (1895年) 
たま襷 (1892年) 
月の夜 (1895年) 
【ナ・ハ行】
にごりえ (1895年) 
軒もる月 (1895年) 
花ごもり (1894年) 
反古しらべ (1896年) 
【ヤ・ワ行】
闇櫻 (1892年) 
暗夜 (1894年) 
雪の日 (1893年) 
ゆく雲 (1895年) 
別れ霜 (1892年) 
わかれ道 (1896年) 
われから (1896年)