樋口一葉の世界にようこそ  ここには樋口一葉の文学を知る上で貴重な作品が多数収録されています。 是非ご覧になり貴重な一様文学の神髄をお楽しみ下さい。
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収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく




 

総ページ数 2

 たまだすき
 樋口一葉
 
 上の一 
 
  をかしかるべき世を空蝉うつせみのとて物にして今年ことし十九年、天のなせる麗質れいしつ、をしや埋木うもれぎの春またぬ身に、青柳あおやぎいと子と名のみききても姿しのばるゝやさしの人品ひとがら、それも其筈そのはず 昔しをくれば系圖の巻のこと長けれど、徳川の流れ末つかた波まだ立たぬ江戸時代に、御用おそばお取次と 長銘ながめいうつて、席を八│萬騎まんき上坐じやうざに占めし青柳あおやぎ右京うきよう三世さんぜの孫、流転るてんの世に生れ合はせては、姫と呼ばれしことも無けれど、面影おもかげみゆる長襦袢ながじゆばんの縫もよう、母が形見かたみ地赤じあかの色の、褪色あせて残るもあはれいたまし、住む所は何方いづく、むかし思へばしのぶおかの名も悲しき上野の背面うしろ谷中やなかのさとにかたばかりの枝折門しおりもん、春は立どまりて御覧ぜよ、片枝かたえさし出す垣ごしの紅梅の色ゆかしとびあがれど、見ゆるは萱ぶきの軒端のきばばかり、四邊あたりぐらす花園に秋は鳴かん虫のいろ、天然の籠中ろうちうに収めて月に聞く夜の心きゝたし、さてもみの虫の父はと問へば、月毎の十二日に供ゆる茶湯ちやとうぬしそれ、母も同じく佛壇の上にとかや、孤獨の身は霜よけの無き花壇の菊か、添へ竹の後見うしろみともいふべきは、大名の家老職かろうしょく背負せおふてたちし用人ようにんの、何之進なにのしんが形見のせがれ松野まつの雪三せつぞうとて歳三十五六、親ゆづりの忠魂みがきそへて、二代の奉仕たゆみなく、一町餘りなる我が家より、雪にも雨にも朝夕ちょうせき 二度の機嫌きゝ怠らぬ心殊勝しゆしょうなり、妻もたずやと進むる人あれど、なんの或がことき給へそれよりは嬢さまの上氣うへづかはしゝ、廿歳はたちといふも今のなるを、盛りすぎては花も甲斐かひなし、適當の聟君むこぎみおむかへ申し度ものと、一意專心せんしんしうおもふほかなにも無し、主人大事の心にらべて世上せじょうの人の浮薄ふはく浮佻ふてう、才あるは多し能あるも少なからず、容姿ようし學藝すぐれたればとて、大事の御一生を托すにる人見渡したる世上に有りや無しや知れたものならず、幸福の生涯を送り給ふ道、そも何とせばからんかと、案じにくれては寝ずに明す夜半もあり、嫁入時の娘もちし母親の心なんのものかは、きずあらせじとの心配大方おほかたにはあらざりけり、雲三せつざうかくまで熱心の聟撰むこえらみも、糸子は目の前すぐる雲とも思はず、良人持をつとたんの觀念、何として夢さらあらんともせず、楽みは春秋の園生そのふの花、ならば胡蝶になりて遊びたしと、とりとめもなきこと言ひて暮しぬ、さるほどに今歳も空しく春くれてころもほすてふ白妙しろたへの色にさく 垣根の卯の花、こゝにも一ツの玉川がと、遣水やりみづの流れ細き所に影をうつして、風なくても涼しき夏の夕暮、いと子湯あがりの散歩そぞろあるきに、打水のあとかろく庭下駄にふんで、もすそとる片手はすかしぼね塗柄ぬりえ團扇うちはに蚊を拂うひつ流れに臨んでたつたる姿に、空の月恥はじらひてか不圖ふとかゝる行く雲の末あたり俄に暗くなる折しも、誰が思ひにかす螢一ツ風にただよひてたゞ眼の前、いと子及ぶまじと知りてもたゞられず、ツト團扇を高くあぐればアナヤ螢は空遠く飛んで手元いかゞるびけん、團扇は卯の花垣越えて落ちぬ、は何とせんとかうじ果てゝ、垣根のひまよりさしのぞけば、今しも雲足きれて新たに照らしいだす月の光りに、目と目見合してたつたる人、何時の間に此所こゝへは来て、今まで隠れてゞも居しものか、知らぬことゝて取亂せし姿見られしか、見られしに相違なとし、面俄かほにあつくなりて、夢現ゆめうつつうつむけば、細く清しき男の聲に、これは其方そなたさまのにや返上せんお受取なされよと、垣ごしにさし出す我が團扇、取らんと見あぐれば恥かしゝ美少年、引かんとする團扇の先一寸ちょつと押へて、思ひにもゆるは螢ばかりとおぼし召すか怪しの一言ひとこと暫時しばしは糸子われか人か、有無うむの間に迷ひし心、もとの心に帰りし時は、卯の花垣に照る月高く澄んで、流れにうつる影我一人になりぬ、さるにてもの人は誰ならん、隣家となりは植木屋とききたるが、思ひの外の人品ひとがらかなと、其方そなたを眺めて佇立たゝずめば風に傳たはる朗詠の聲いとゞ床しさの數を添へぬ、糸子世は果敢はかなきものと思ひ捨てゝ、さかりの身にべに白粉おしろいよそほはず、金釵きんさ綾羅りょうらんなんの爲の飾り、らぬことぞと顧みもせず過ぎし心に恥かしや、我れ迷ひたりお姿今一度見まほしゝとび上がれば、モシとひかへらるゝ袂の先、れぞオヽ松野か何として此慮へは何時いつの間にことば有哉無哉うやむや支離滅裂しりめつれつ  
 
 上の二  
 
  丸窓にうつる松のかげ、幾夜いくよ ながめて月も闇になるまにいと子の心その通り、打あけては問ひもならぬ、隣の人の素性すじやうきゝたしと思ふほど、意地わろく誰れも告げぬのかそれともに知らぬのか、よもや植木屋の息子にてはあるまじく、さりとて誰れ住替すみかはりし風説うはさも聞かねばほかに人の有る筈なし、不審いぶかしさよの底の心ろは其人床しければなり、用もなき庭歩行あるきにありし垣根のきは、幾度びか顧りみて思へば、さてもはした無きことなり、うじも知らず素性も知らず、心情こゝろだても何も知れぬ人に戀ふとは、我れながら淺ましきことなり、定めなき世に定めなき人を頼む、婦人をんなの身はかなしと思もひたえて、松野が忠節の心より、我大事と思もふあまりに様々の苦労心痛しんつう、大方ならぬ、こころざしは知るものから、それすら空ふく風と聞きて耳にだに止めんとせざりし身が、なんぞや跡もかたも無き戀に磯のあはびの只一人もの思ふとは、心の問はんもうら恥かし、人知らぬ心の悩みに、咋日きのふ一咋日おととひは雪三が訪問おとづれさへ嫌忌うるさくて、じちば 多くもはさゞりしを、如何いかきゝて如何ばかり案じやしけん、氣の毒のことして今日けるよ、いでの日も暮なんとするを、例の足おとする頃なり、日頃くもりし胸の鏡すゞしき物語にはらさばやとばかり、垣根の近邊ほとりたちはなれて、見返りもせず二三歩すゝめば遣水やりみづの流がれおと清し、心こゝに定まつて思へば昨日の我れ、彷彿として何故なにゆゑに物おもひつる身ぞ、廣き園生は我が爲めに四季の色をたゝかはしみやびやかなる居間は我が爲めに起居きゝよの自由あり、風に鳴る軒ばの風鈴、露のしたゝる釣荵艸つりしのぶ、いづれをかしからぬも無きを、何をくるしんでか、要なき胸は痛めけん、愚かしさよと一人笑みして、竹椽ちくえんのはしに足を休めぬ、晩風涼ばんぷうしく袂に通ひて、空に飛かふ蝙蝠かはほりのかげ二つ三つ、それすら漸く見えずなりゆく、片折戸かたおりどを静かにおとなふは聞なれし聲音こはねなり、いと子厨くりやのかたに聲をかけて、玉よ雪三が参りたりとおぼゆるに、燈火とくと命令いひつけながら、ツトたちかどかたうち見やりしが、闇にもしるき白き手をげて、稚児おさなごが母よぶ様にさしまねぎつ、坐敷ざしきにも入らではるかに待てば、松野はおもむろに歩みを進めて、早く竹椽のもとに一揖いつしふするを、糸子かるく受けて莞爾にこやかに、色莚はなむしろなかばを分けつゝ團扇を取つて風を迭れば、恐れ多しと突く手慇懃いんぎんなり、このほどはお不快と承りしが、最早もはや平日へいじつに返らせ給ひしか、お年輩としごろには気欝きうつの病ひの出るものと聞く、例の讀書は甚だわろし、犬事の御身│等閑なほざりにおぼしめすなと、知らねばこそあれ真実まめやかなることばにうら耻かしく、おもてすこし打ち赤めて、いやとよ病気はう癒りたり、心配かけしが気の毒ぞと我れ知らず出るわびの言葉に、何ごとのおほせぞ主従の間に氣の毒などゝの御懸念ある筈なし、お前さまのおん身に御病気その外何事ほかありても、それはみな小生おのれが罪なり、御両親さまのお位牌ゐはいさては小生おのれなき両親おやに對して雪三何譯なんなければ、假令身たとへにかへ命にかへても盡くし参らする心御遠慮なるを、よしなきはお置き下されたしと恨み顔なり、これ程までに思ひくるる、其心知そのらぬにも有らぬを、この頃の不愛想我が心のもだゆるまゝに、ことばはすがものうくて、病氣などゝ有りもせぬいつはりは何ゆに云ひけん、空おそろしさに身も打ふるへて、腹たちしならば雪三ゆるしてよ、へだてつる心は徴塵もなけれど、しうの家来の昔は兎もあれ、世話にこそなれ恩もなにもなき我が身が、常日ごろさま”/\々の苦勞をかける上にこの間中よりの病気、それ程のことでも無かりしを、何故か気がふさぎて、心にも無き所置しょちありしかもしれず、それがつひ気の毒にて言ひたるなれど、心にはらば二度とは言はじ、そなたに捨られて我れ何としてか世には立つべき、心おさなければ目にあまることも有らん、はらたゝしきこともさはならんが、ほかに寄るのなき身なるを、いもととも娘とも断念あきらめて、教へたてられなば嬉しきぞと、松野が膝ゆり動かして涙ぐめば、雪三身を退しさりてかしらを下げつゝ、ぶんにあまりし仰せお答への言葉もなし、お心細き御身なればこそ、小生風情おのれ御叮寧ていねいのお頼み、お前さま御存じはあるまじけれど、往昔そのかみの御身分おもひ出されてお痛はしゝ、我れ後見うしろみまゐらする程の器量なけれど、赤心まごころばかりはびとにまれ劣ることかは、御心おこゝろやすく思召おぼしめせよ世にもすぐれし聟君迎へ参らせてはなばなしきおん身にも今なり給はん、鳴呼をこがましけれど雪三が生涯の企望のぞみはお前さま御一│しんの御幸福ばかりと、言ひさしてことばを切りつ糸子がおもてじつと眺めぬ、糸子何心なにこゝろなく見返して、我は花々しき身にならんの願ひもなく、まして聟むかへんの嫁入りせんのと、世の人めかしき望み少しもなし、只│そなたさへ見捨ずは、御身さへいとはせ給はずは、我が生涯の幸福ぞかしとて嫣然につことばかりうち笑めば、松野じりと膝を進めて、嬢さまはそれほどまでに雪三を力とおぼしめしてか、それとも一時のおたはむれか、御本心仰せ聞けられたしと問ひ詰むるを、糸子ホヽと笑ひて松野が膝に輕く手を置きつ、戯むれかとは問ふだけも淺し、親とも兄ともなく大切に思ふものをと、無心に言へばかたじけなしと一トこと語尾ごびふるへて消えぬ  
 
 中の一  
 
 洗ひ髪の束髪そくはつ薔薇ばらの花の飾りもなき湯上ゆあがりの単衣ゆかたでたち、素顔すがほうつくしき夏の冨士のひたひつき眼に残りて、世はおぎの葉に秋風ふけど螢を招ねきし塗柄ぬりえ團扇うちは面影おもかげはなれ貴公子り、駿河臺の紅梅町にその名もほる明治の功臣、竹村子爵との尊稱は千軍萬馬まんばのうちに含みし、つぼみの花の開けるにや、それが次男に緑とて才識さいしき並びそなはる美少年、今歳ことしのなつの避暑には伊香保いかほに行かんか磯部いそべにせんか、知る人おほからんはわびしかるべし、牛ながら引入れる中川のやどり手近くして心安き所なからずやと、打うめかれしをお出入のたく●駝師それなるもの承はりて、拙郎やつがれが谷中の茅屋ぼうおくせき入れし水の風流みやびやかなるは無きものから、紅塵こうじん千丈せんじょう市中まちなかならねば涼しきかげもすこしはあり。足を運び給はゞ忍ぶが岡の緑樹りょくじゅの朝つゆ、寝間着のまゝにも踏み給ふ螢名所の田畑も近かり、たゞ天王寺てんわうじの近き爲に、蚊はあまり少なからねど、吹き払ふにる風十分なり、に角思ひ立たせ給へとて、かみ迷惑氣にも見えずいざなふにぞ、夫好それよからんとて夏のさし入りより、別室はなれざしき仮住かりづみ三月みつきばかりの日を消しゝが、帰邸きていの今日の今も猶残なほる記憶のもの二ツ、隣家となりに咲ける遅咲おそざきの卯の花、都めづらしき垣根の雪の、涼しげなりしを思ひいづると共に、月に見合はせし花のなゆはぢてそむけしえり足の美くしさ、返す團扇うちはに思ひを寄せし時憎くからず打笑うちゑみし口元もとなんど、只眼の先に沸き来たりて、我れ知らず沈思ちんし瞑目めいもくすることもあり、さるにても何人なにびと住家すまいにや、人品ひとがら高尚けだかかりしは、無下むげいやしき種には有るまじ、妻か娘かそれすらも聞き知らざりし口惜くちおししさよ、宿のあるじ隣家となりのことなり、問はば素姓すじようも知るべきものと、むなしくはなど過しけん、さりとて今更問はんもうしろめたかるべしなんど、迷ひには智恵の鏡も曇りはてゝや、五里の夢中に彷徨さまよひしが、流石さすがさだむる所ありけん、慈愛二となき母君に、一日あるひしかと打明けられぬ、さはいへど人妻ならば及ぶまじことなりたしかめてのち断念だんねんせんのみ、うきたる恋に心ろを盡くす軽忽あはつけしさよともおぼさんなれど、父祖傳來ふそ旧交きうこうありとて、その人の心みゆる物ならず、家格かかくに随ひ門地もんちたつとひ、りに撰りて取る虫喰栗むしくひぐりも世に多かり、くずにうづもるゝ美玉又びぎよくなからずや。
  あはれこの願ひ許容きよようありて、彼女かれが素性問ひ定め給はりたし、曲りし刀尺きしすぐなる物はかり難く、まよひし眼に邪正じやしようは分けがたし、鑑定は一重ひとへに御眼鏡にまかさんのみと、恥たる色もなくべらるゝに、母君一卜度たびあきれもしつ驚ろきもせしものゝ、くまで熱心のきはまりには、何事引きいでられんも知るべからず、打明けられしだけ殊勝なり、よろづは母が胸にありまかせたまへと子故の闇に、あるタ暮の墓参ぼさんの戻り、■縄師うえきやがりくるまを寄せて、りもせぬ鉢ものゝ買上げ、さては園内の手入れを賞めなどして、逍遥そぞろあるきはしその人見ゆるやと、垣根の隣さしのぞけど、園生廣そのふくして家遠く、かやぶきの軒ばなかば掩ふ大樹たいじゆの松のしたたる如き緑の色の目にたちて見ゆるばかり、聲きくよすがも有らざりければ、別亭はなれに澁茶すゝりながらそれとなき物語、この四隣あたりはいづれも閑静にて手広き園生浦山うらやましきものなり、此隣このりは誰様たれさまの御別荘ぞ、松ばかりにても見惚みとるゝやうなりとほゝ笑めば、や別荘にはあらず本宅にておはすなりと答ふ、これを話しの糸口として、見惚れ給ふは松ばかりならず、美くしき御主人公なりといふ、ればよなと思ひながら、殊更ことさらに知らず顔粧よそほひつゝ、主人あるじは御婦人なるにや、さて何某なにがし殿どのの米亡人とか、さらずはおもひものなんどいふ人か、べつして與へられたる邸宅かと問へば、からずむかしをいはば三千石の末流まつりうなりといふ、さらば旗下はたもと娘御むすめごにや、親御などもおはさぬか、一人住みとは痛はしきことなりと、早くも其人そのひと不憫ふびんになりぬ、此処の主も多弁たべんにやしはぶき勿躰もつたいらしくして長々と物語りいでぬ、租父なりし人が将軍家のおぼえ淺からざりしこと、今一足にて諸侯の列にも加へ給ふべかりしを不幸短命にして病没せしとか、或は其頃その威勢めをひは素晴しきものにて、いまの華族何なんとして足下あしもとへもらるる物でなしと、口濘すべらしてあわただしく唇かむもをかし、それに比べて今の活計くらしは、火のきえしも同じことなり、れほどの地邸ちやしきに公債も何ほどかはもちたまふならんが、それも嬢さまが身じんまくだけやうやう々なるべしと、我れり立ツて見し様な話しなり、老爺おいなんとしてそのやうにくわしく知るぞと問へば、拙郎くつがれ皆目知かいもくるはずなけれど、一咋年おととし病亡なくなりし嬢さまの乳母うばが、常日頃遊びに來ての話なりといふ、お歳は十九なれどまだまだ十六七としか見えず、それから思へば松野どのは大層に老けられたりと我一人呑込顔のみこみ、その松野殿とかは娘御の何ぞと問はれて、るほどなるほど御存じは無き筈なりとて、更に松野の爲におとがひしばらく働かせぬ、さればこそ暮やすき、秋日の短時間に、糸子主従しうじゆうは竹村夫人が胸中きようちゆう知己ちきとぞなれりける  
 
 中の二  
 
 心は變化するものなり、雪三が往昔そのかみ心裏しんりを覗はゞ、糸子に對する観念の潔白けつぱくなること、其名そのなに呼ぶ雪はものかは、主人大事の一ト筋道、ふりむくかたも無かりし物の、寄るなき御身憐れやとのじやうやうちやうじては、我れ一人をばあめが下の頼もし人にして、一にも松野二にも松野と、だてなく遠慮なく甘へもしつ拗強すねもしつつ、むつれよる心愛らしさよと思ひしが、そも流れに塵一ちりツ浮びそめし初めにて、此心更このに追へども去らず、澄まさんと思ふほど掻きにごりて、眞如しんによの月の影は何処いづくもう/\々朦ろう/\々の淵ふかく沈みて、目にさへぎるは月を追ひ日に随ひてえんいよ艶ならんとす雨後うご春山しゆんざんの花のかんばせ、妍ます妍ならんとする三五夜中やちうの月のまゆいと子が容姿ようしばかりなり、かゝりけれども猶ほ一片ぺん誠忠せいちゅうの心は雲ともならず霞とも消えず、流石さすがかへいりみるその折々は、慚愧ざんき汗背そびらに流れて後悔の念胸をさしつゝ、是は魔神にや見入みいれられけん、有るまじき心なり、我れに邪心なきものとおぼせばこそ、幼稚の君を托し給て、心やすく瞑目めいもくし給ひけ、亡主ぼうしゆなんの面目あらん、位牌の手前もさることなり、いでや一対の聟君選えらみ参らせて、今世こんせ主君きみにも未來の主君にも、忠節のほどあらはしたし、かはあれど氣遣きづかはしきは言葉たくみに誠少まことくなきが今の世の常と聞く、誰人たれびと至信ししんに誠実に、我が愛敬する主君きみの半身となりて、生涯の保護者とはなるべきにや、思へばいとも覚束おぼつかきことなり、我れにしう"/\主従の関係なくば、我れ松野雪三ならず青柳は、いと子嬢の手を取りて、生涯の保護者とならんもの天が下に叉とはあるまじ、さりなならは叶なふべきことならず、假にもかゝる心を持たんは愛するならずして害するなり、いで今よりは虚心平気のむかしに返りて何ごとをも思ふまじと、断念いさましく胸すずしくなるは、青柳家の門踏まぬ時なり、糸子が愛らしき笑顔に喜こび迎へて、愛らしき言葉かけらるゝ時には、道にそむかば背け世の嗤笑ものわらひにならばなれ、君故捨つる名眞しんぞ惜しからず、今日は思ふ心もらさん明日は胸の中うち明けんかと、實實まめなる人ほど戀は苦るし、斯かるおもひの幾筋をり合はされし身なるものから、糸子が心は春の柳、そむかずびかずなよとして、無邪気の笑顔いつも愛らしく、雪三よきくう■の秋草盛りなりとかきくを、此程このほどすぐさず伴ひては給はらずやとかき口説くどきしに、何の違背いはいのある筈なく、お前さま御都合にて何時にてもお供すべしと、松野は答へぬ、秋雨はれて後一日今日はとにはかに思ひたちて、糸子例の飾りなきよそほひに身支度はやく終りて、松野が来る間まち遠しく雪三がもと我れより誘いぬ、と見れば玄関に見馴れぬ沓一足くつあり、客來きやくらいにやあらん折わろかりとを返せしが、さりとも此處まで来しものをこのまま帰るも無益むやくししと、庭よりぐりて縁に上れば、客間めきたる所に話し聲す、やおらら次の間にかいひそまりて聞くともなしに耳たつれば、客はそもれなるにや、青柳あをやぎといふこゑいと子と呼ぶ聲折々にまじりぬ、さても何事を談ずるにや、我れにも関係ありなるをと、襖に寄りて、静かに聞けば、断続だんぞくして聞ゆるものがたり意味明亮めいりようならねども、大方は知れ渡りぬ、聞く人ありとは知らぬもののことばあまりは高からず、松野に向ひてしたるは竹村子爵が家從の何がし、主命しゆうめいに依りて糸子縁談の申し込なるべし、其時雲三決然けつぜんとせし聲音こわねにて、折角の御懇望ごこんぼうながら糸子さま御儀おんぎ他家たけしたまふ御身ならねばお心承るまでもなし、雪三断然おことわり申す御帰邸ごきていのうへ御前體ごぜんていよろしく仰せ上げられたしといひ放てば、る仰せあらんとは存ぜしなり、然らは聟君としては迎へさせ給はずやといふ、いなとよ兎に角に御身分│がらつり合はず、末のほど覚束おぼつかなければと言ひかゝるを打けして、そは御懸念ごけねんが深すぎずや、釣合ふとつり合ぬは御心の上のことなり、一應いと子さまの御心中ごしんちゆうお伺ひ下されたし、そのお答へ承はらずば帰邸きていいたしがたひらにお伺ひありたしと押返せば、それ程に仰せらるゝを包むも甲斐かひなし、誠のこと申上あげん、糸子さまにははや定まる人おはすなりそれ故のおことはりぞと莞爾につこと笑めば、家從は少し身を進ませて、始めて承はりたり何方いづかたへの御縁組みにや苦しからずは仰せきけられたしと雪三のおもてキツと見れば、糸子もひの襖の際にぴつたりと身を寄せつあやしのことよと耳そばだつれば、松野例に似ぬ高調子にらば聞かし参らせん御帰邸のうへ御主君、殊に緑君にお傳へ願ひたし、糸子が契約の艮人をつととは、誰れにもあらず、松野雪三即すなはちくいふ小生おのれ

  

  
 

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  樋口一葉収録作品 (アイウエオ順)
  【ア行】
暁月夜 (1893年) 
あきあはせ (1896年) 
雨の夜 (1895年) 
うつせみ (1895年) 
うもれ木 (1892年) 
うらむらさき (1896年) 
大つごもり (1894年) 
【カ行】
經つくえ (1892年) 
琴の音 (1893年) 
この子 (1896年) 
【サ行】
五月雨 (1892年) 
さをのしづく (1896?年) 
十三夜 (1895年) 
すゞろごと (1896年) 
【タ行】
たけくらべ (1895年) 
たま襷 (1892年) 
月の夜 (1895年) 
【ナ・ハ行】
にごりえ (1895年) 
軒もる月 (1895年) 
花ごもり (1894年) 
反古しらべ (1896年) 
【ヤ・ワ行】
闇櫻 (1892年) 
暗夜 (1894年) 
雪の日 (1893年) 
ゆく雲 (1895年) 
別れ霜 (1892年) 
わかれ道 (1896年) 
われから (1896年)