暗夜 (2)
老夫婦は猶もおらん様が詞の幾倍を加へて、今少し身躰のたしかに成るるまでは我等が願ひても此處に止めたしと思ひしを、嬢様よりのお言葉なれば今は天下はれての御食客ぞや、肩身を廣くおもふ事をも為し此處の用をも助けて、大に働くがよかるべし、若き者の愚圖々々と日を送るは何よりの毒なればとて、身にあふほどの用事を彼れ是れとあてがひて、家内の者の様にあつかはるれば、それに引れて氣の毒もうすく、一日二日三日四日、さらばお詞にあまへてとも言はねど、やう/\に根の生へて我れも分らぬ日を何とはなしに送りぬさしも廣かる邸内を手入れのとゞかねば木はいや茂りに茂りて、折しもあれ夏草ところ得がほにひろごれば、忘れ草しのぶ草それらは論なし、刈るも物うき雑草のしげみをたどりて裏手にめぐれば幾抱への松が枝大蛇の水にのぞめる如くうねりて、下枝はぬるゝ古池のふかさいくばくぞ、むかしは東屋のたてりし處とて、小高き所の今も名残は見ゆめれど、まやのあまりも淺ましく荒れて、秋風ふかねど入日かげろふ夕ぐれなどは、獨りたつまじき怪しの心さへ呼おこすべく、見わたす限り物すさまじき宿に、さらでも沈みがちの直次郎、明ぬれど暮ぬれど淋しきおもひは満身をおそひて、いよ/\浮世に遠ざかるやうなり月にも闇にもをかしきは夏の夜といへど斯る宿の夕月夜、五條わたりの軒のつまならば夕がほの猶や花々しかるべき、お蘭さまの居間といへるは、廊下いく曲りはるかに放れて、獨りや物思ふ、よべど答へも松風の音ものさわがしき奥の奥の奥座敷なり、直次は老夫婦と共に玄開ちかき處にあれば一家の内ながらおのづからの隔てに、病中とは異なりて打とけて物いふ事も少なく、佐助おそよとても、嬢様をば神様のやうにいつきまつりて、大事に大事に大事に、我が命はよしや芥の捨てもせん此御爲ならばと忠義はすることながら、唯だ恐れてかしこみて、此處にさかりの名花一木、散らさじ折らさじと注縄引はへて垣の外より守るが如く、馴れての睦みのあらざれば直次もいつしか引いれられて、我れは食客の上下相通の身ながら、さなからお主様のやうにぞ覺えける。されば月の頃の夕納凉とて團扇かた手に浮世ものがたり聲たか/\”と、晝のあつさを若竹の葉風に拂ひて蚊遣の烟り空になびかする軽々しきすさびもあらねば、何として分るべきお蘭さまの人となりも此家の素性も、唯雲をつかむやうの想像に、虚實はしらず佐助おそよが物語を加へて、僅かに松川何某と言ひし財産家の浮世にはづれ易き投機にかゝりて、花と望みし峯の自雲あとなく消ゆれば、残るはお蘭様のお身一つと、痛はしや脊負ふにあまる負債もあり、あはれ此處なる邸も他人の所有と、唯これだけを曉り得ぬ (その六) 庭草におく露玉をつらねて吹風こゝちよき或る朝ぼらけのこと、おらん様いつより早くお起きなされて、今日は父様の御命日なれば、お花は我れが剪りて奉らんとて、花鋏み手にして庭へ下りらるるに、撫子ならば裏の方が美くしとて、直次もつゞいて跡を追ひぬいつぞは問はんと思ひし此處の様子を、お蘭様が口づから聞くよしもやと直次郎例に似ず口がるに物いへば、お蘭様も機嫌よげにて、早百合なでしこあれこれの花は剪りて後も,我が庭ながら物珍らしげに見あるき給ふ嬉しさ、直次は何氣なき躰にて今日のお志しは御父上様とか、お前様は幾年にて別れ給ひしぞと問へば、汝も早くよりの一人者とや我れによく似しことかなとほゝゑまる。 此坂を下りてあしこへ行きて暫時やすまん、つかれては話しも厭やなればと仰せあるに、さらば歸りたまふか、厭々、今しばし遊ばんとて、苔なめらかなる小道を下らるゝに、おあぶなしと言へば、氣のどくなれど其肩をかし給へとてつと寄りて此處を下りぬ。 下りて出るは例の池の岸なり、木の切株の平らなるに御座を拂ひて此處にお休みなされよと言へば,嬉しきことよの今朝は弟の介抱をうくるやうなり、其方も此處へ休まばよきにと半分を譲らるれば、何として勿躰なきことゝ直次は別なる枯草の中へうづくまりぬ。 其方も早くに二タ親とも世をさりしとか、我れも母なりし人の顔はしらで、育ちしは父上の手一つなれば、戀しさなつかしさは又一倍におぼゆるぞかし、平常はともあれ由縁ある日はこと更におもひ出されて、まぎらさんとても氣のまぎれぬは今日なり。其方にも其おぼえはあるべしとあるに、誠に其通りとて直次も涙ぐまれぬ。さてもお父様は幾年の前にか失せ給ひし、お前さまの親御様なれば御年もまだお若かりしならんと問ヘば,いや若しといふほどにはあらず.別れしは八年の前おもへば夢のやうな別れ成しとあるに、さらば御病氣は俄の病にてやありしと、たゝみかけて問へば、何の病氣かは、我が父はこれこの池に身を沈め給ひしなり。 直次が驚愕に青ざめし面を斜に見下して、お蘭様は冷やかなる眼中に笑みをうかべて、水の底にも都のありと詠みて帝を誘ひし尼君が心は知らず、我父は此世の憂きにあきて、何處にもせよ静かに眠る處をと求め給ひしなり、浪は表面にさはぐと見ゆれど思へば此底は静なるべし、暗くやあらん明くやあらん、世の憂き時のかくれ家は山邊もあさし海邊もせんなし、唯この池の底のみは住よかるべしとて静かに池の面を見やられぬ。 吹風松の梢にたかく音づるれば、やがてさゞ波池の面におこりて草のそよぎも後の見らるゝに、お蘭さまは猶たゝんともし給はず、直次は何故そのやうにかしこまりてのみ居るのぞや、我れ斗りならで汝も何ぞ話して聞かせよと仰せらるゝに、いよ/\詞のふさがりてさしうつむけば、困りし人よ女のやうな男と笑はれて、今更きえぬ心の恐れも顔色に出て笑はるるにや、我が意氣地なきに比べてお蘭さまはどれほど強き心を持てば彼の様に平気に落つきて、すら/\と物語をつゞけらるゝならん、我れは聞くのみにも膽の冷るやうなるをと、物は言はで御顔を打守れば、思ひなしにや流石に色は青白く見ゆ。 さりながら此はなしは他人に聞かすまじきぞや、物いひさがなきは世のならひながら、親のことなれば口惜しきぞかし、汝とてもこれを知りては此處は厭やとおもふやふに成るべきか、さらば話すのでは無かりしにと、少し景色のかはりて言へば、何として何として、其やうなこと思ふて成りましようや、又口外などはもとよりの事、夢さら御心配なされますなといへば、誠に我が弟同様におもふ心易だてより、底の見えるやうなこと聞かせし恥かしさ、何も聞ながしにし給へ、さらば行かんと立あがるに、花は我が持ちて参らん、いや夫れよりは手を助けて給はれとて、例の脇道にかゝりし時、白く美くしき手を直次が肩にかけつゝ、小作りに見ゆれど流石に男は丈の高きものかな、汝は幾歳とや十九か二十か、我れに比らべてよほどの弟とおぼゆるに、我れはまあ幾歳ほどに見ゆるぞや、されば一ツ二ツの姉君か、何として何として、すがれと言ふ三十はやがてほどなき廿五といふ、それは誠に何たる御若さとはいへば、褒めるのかやそしるのかや、とて御顔あかみぬ。 (その七) 女子は温順にやさしくば事たりぬべし。生中持ちたる一節の、よきに随ひて好きは格別、浮世の浪風さかしまに當りて、道のちまたのニタ筋にいざや何方と決心の當時、不運の一あほりに炎あらぬ方へと燃へあがりては、お釋迦さま孔子様兩の手をとらへて御異見あそばさるゝ共、無用のお談義お置なされ、聞かぬ聞かぬと振りのくる顔の眼に涙はたゝゆるとも、見せじ、こぼさじ、これを浮世の強情我慢と言ふぞかし、天のなせる麗質よきは顔のみか、姿とゝのひて育ちも美事に、斯くながら人の妻とも呼ばれたらば、打つに點なき潔白無垢の身なりけるを、はかなきはお蘭の身の上なり、天地に一人の父をうしなひて、しかも病ひの床に看護の幾日、これも天壽と醫藥の後ならばさても有るべし、世上に山師のそしりを殘して、あるべき事か我れと我が手に水底の泡と消えたる、原因の罪はとかぞふれば流石に天道是れ無差別とは言ひがたけれど、口に正義の髭つき立派なる方様のうちに、恐ろしや實の罪はありける物を、手先に使はれける父が身はあはれ露拂ひなる先供なりけり、毒味の膳にあてられて一人犠牲にのぼりたればこそ、殘る人々の枕たかく春の夜の夢花をも見るなれ、さては恩ある忘れがたみに切めては露の情もあるべきを、荒れゆく門に馬車あとたえて、行かば恐ろし世上の口と、きたなき物は人心ならずや、巫峡の水の木の葉舟かゝる流れに乗りたるお蘭が、悲しき怕さ口惜しさの乙女心に染こみて、よしさらば我れも父の子やりてのくべし、悪ならば悪にてもよし、善とはもとより言はれまじき素性の表面を温和につゝんでいざ一と働き、仆れてやまば夫れまでよ、父は黄泉に小手招きして九品蓮薹の上品ならずとも、よろしき住家は彼の世にもあるべし、さらば夢路に遊ばんの決心、これさら/\好きに狂ひしうかれ心かは、時にかられて涙は胸に片頬笑みしつ、見あぐる軒ば目毎にあるれど、しのぶの露をあはれ風流とうそぶく身は、人しらぬあはれ此中にあり。 爲すまじきは戀とや、色ある中に忍ぶ文字ずり、卒ざ陸奥にありといふ關の人目にと絶へを詫るは優しかるべし、懸けつかけられつ釣縄のくるしきは慾よりの間柄なり、一人は誠の心より慕ふともよりあはねば是れも片糸の思ひやすらん、其此番町に波崎漂とて衆議院に美男の聞えある年少議員どのありき、遠からぬ縣より撰出の當時、やかましかりし沙汰の世のならひとて疵にはならねど、秘密は松川との間にかくれて今日の財産も半ば何より出しやら、世にある頃は水魚の交り知らぬ人なく、よき聟得つと洩らせし一と言を耳に残せる人もあれど、浮雲おほふて乍ち昏し扶桑の影、なしと言はゞ夫れまでなる外國あるきに年月を經て、歸りしは其人すでに亡せけるの後、今日の羽風に昔しの塵を拂ひて、又ぞろ釣り出すや其筋のゆかり、官臭とやら女子の知らぬ香のする黨には鮒馬の君とて用ひも輕からず、演説上手にて人をも感動さするよし、夫れもしかなり口車よく廻はらでやは、萬一に引かれて二十五の秋まで、哀れお蘭が獨寝の枕に結ばぬ夢の行衛はこれなり、誰が爲まもる操の色ぞ松の常盤もかくては甲斐なき捨られ物に、一身つく/\”と觀じては、浮世いや/\墨染の袖に、さが野は遠し此處ながらの世すて人ともならんは常なれど、憎くき男心におめ/\と秋の色ひとり見て、生ざとりの經佛に為事なしのあきらめ、夫れも嫌々、とても狂はゞ一世を闇にして、首尾よくは千載の後まで花紅葉ゆかしの女に成りおほせ、出來ずは一時の榮花に末は野となれ山路の露と消ゆるもよし、我ながら女夜叉の本性さても恐ろしけれど、かく成行くはこれまでの人なり、悔まじ恨まじ浮世は夢と、これや戀をしをりに淺ましの觀念、おそろしきは涙の後の女子心なり。 (その八)

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