樋口一葉の世界にようこそ  ここには樋口一葉の文学を知る上で貴重な作品が多数収録されています。 是非ご覧になり貴重な一様文学の神髄をお楽しみ下さい。
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収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく




総ページ数 3

にごりえ

   :ルビ付き
樋口一葉



       一

 おい木村さんしんさん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉ふたばやへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにおぶうなら歸りに屹度きつとよつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯しながら後刻のちに後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つてしきゐをまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懷だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭やけぼつくひと何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないでまじなひでもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆うでが無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私しのやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前みせさきへ腰をかけて駒下駄のうしろでとん/\と土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛ひきまゆげに作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髮の大嶋田に新わらのさわやかさ、ゑりもと計の白粉も榮えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしにのあたりまで胸くつろげて、烟草すぱ/\長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形おほがたの裕衣に引かけ帶は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の處に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀のかんざしで天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻さつきの手紙お出しかといふ、はあと氣のない返事をして、どうで來るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つて居るに、大底におしよ卷紙二ひろも書いて二枚切手の大封じがお愛想で出來る物かな、そして彼の人は赤坂以來からの馴染ではないか、少しやそつとの紛雜いざがあろうとも縁切れになつて溜る物か、お前の出かた一つで何うでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうも彼んな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我まゝが通るから豪勢さ、此身になつては仕方がないと團扇うちはを取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。




 店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り鹽景氣よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる處も見ゆ、勝手元には七輪をあふぐ音折々に騷がしく、女主あるじが手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理ことわり、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客樣は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商賣がらを心得て口取り燒肴とあつらへに來る田舍ものもあらざりき、お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌きりやうの自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際つきあつては存のほかやさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何處となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近來まれの拾ひもの、あののお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜いとて軒並びの羨みぐさになりぬ。
 お高は往來ゆきゝの人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて氣にしても居まいけれど、私は身につまされて源さんの事が思はれる、夫は今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違をが子があろがさ、ねへ左樣ではないか、お内儀さんがあるといつて別れられる物かね、構ふ事はない呼出してお遣り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顏を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦め物で別口へかゝるのだがお前のは其れとは違ふ、了簡一つでは今のお内儀さんに三下みくだり半をも遣られるのだけれど、お前は氣位が高いから源さんと一處ひとつにならうとは思ふまい、夫だもの猶の事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが來るだろうから彼の子僧に使ひやさんを爲せるが宜い、何の人お孃樣ではあるまいし御遠慮ばかりまをしてなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけない兎も角手紙をやつて御覽、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管きせる掃除に餘念のなきか俯向たるまゝ物いはず。
 やがて雁首を奇麗に拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら氣をつけてお呉れ店先で言はれると人聞きが惡いではないか、菊の井のお力は土方の手傳ひを情夫まぶに持つなどゝ考違かんちがへをされてもならない、夫は昔しの夢がたりさ、何の今は忘れて仕舞て源とも七とも思ひ出されぬ、もう其話しは止め/\といひながら立あがる時表を通る兵兒帶の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相變らず豪傑の聲かゝり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、忽ち廊下にばた/\といふ足おと、姉さんお銚子と聲をかければ、お肴は何をと答ふ、三味さみ景氣よく聞えて亂舞の足音これよりぞ聞えそめぬ。





       二

 さる雨の日のつれ/″\に表を通る山高帽子の三十男、あれなりとらずんば此降りに客の足とまるまじとお力かけ出して袂にすがり、何うでも遣りませぬと駄々をこねれば、容貌よき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六疊に三味線なしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれて其次は親もとの調べ、士族かといへば夫れは言はれませぬといふ、平民かと問へば何うござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあ左樣おもふて居て下され、お華族の姫樣ひいさまが手づからのお酌、かたじけなくお受けなされとて波々とつぐに、さりとは無作法な置つぎといふが有る物か、夫れは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家の左法、疊に酒のまする流氣もあれば、大平の蓋であほらする流氣もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めの極りでござんすとて臆したるさまもなきに、客はいよ/\面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めて凄ましい物語があるに相違なし、たゞの娘あがりとは思はれぬ何うだとあるに、御覽なさりませ未だ鬢の間に角も生へませず、其やうに甲羅は經ませぬとてころ/\と笑ふを、左樣ぬけてはいけぬ、眞實の處を話して聞かせよ、素性が言へずば目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら貴君あなたびつくりなさりましよ天下を望む大伴おほとも黒主くろぬしとは私が事とていよ/\笑ふに、これは何うもならぬ其やうに茶利ちやりばかり言はで少し眞實しんの處を聞かしてくれ、いかに朝夕を嘘の中に送るからとてちつとは誠も交る筈、良人はあつたか、それとも親故かと眞に成つて聞かれるにお力かなしく成りて私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は眞實ほんの手と足ばかり、此樣こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど未だ良人をば持ませぬ、何うで下品に育ちました身なれば此樣な事して終るのでござんしよと投出したやうな詞に無量の感が溢れてあだなる姿の浮氣らしきに似ず一節さむろう樣子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、殊にお前のやうな別品さむではあり、一足とびに玉の輿にも乘れさうなもの、夫れとも其やうな奧樣あつかひ虫が好かで矢張傳法肌の三尺帶が氣に入るかなと問へば、どうで其處らが落でござりましよ、此方で思ふやうなは先樣が嫌なり、來いといつて下さるお人の氣に入るもなし、浮氣のやうに思召ましようが其日送りでござんすといふ、いや左樣は言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先で誰れやらがよろしく言ふたと他の女が言傳たでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、あゝ貴君もいたり穿索せんさくなさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは反古の取かへツこ、書けと仰しやれば起證でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫めをとやくそくなどと言つても此方こちで破るよりは先方樣の性根なし、主人もちなら主人がこはく親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方も追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、夫なら廢せとて夫れ限りに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る邊なげなる風情、もう此樣な話しは廢しにして陽氣にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騷ぎぬかうと思ひますとて手をたゝいて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が來るに、おい此娘の可愛い人は何といふ名だと突然だしぬけに問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が來るに焔魔樣ゑんまさまへお參りが出來まいぞと笑へば、夫れだとつて貴君今日お目にかゝつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとして居ましたといふ、夫れは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿/\お力が怒るぞと大景氣、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商賣を當て見ませうかとお高がいふ、何分願ひますと手のひらを差出せば、いゑ夫には及びませぬ人相で見まするとて如何にも落つきたる顏つき、よせ/\じつと眺められて棚おろしでも始まつては溜らぬ、斯う見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員樣があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御褒賞はうびだと懷中から紙入れを出せば、お力笑ひながら高ちやん失禮をいつてはならない此お方は御大身の御華族樣おしのびあるきの御遊興さ、何の商賣などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲團の上に乘せて置きし紙入れを取あげて、お相方あひかたの高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも遣はしませうとて答へも聞かずずん/\と引出すを、客は柱に寄かゝつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。




 お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何宜いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の拂ひを取つて殘りは一同みんなにやつても宜いと仰しやる、お禮を申て頂いてお出でと蒔散らせば、これを此娘の十八番に馴れたる事とて左のみは遠慮もいふては居ず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、ありがたうございますと掻きさらつて行くうしろ姿、十九にしては更けてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の惡るい事を仰しやるとてお力は起つて障子を明け、手摺りに寄つて頭痛をたゝくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品これさへ頂けば何よりと帶の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、何時の間に引出した、お取かへには寫眞をくれとねだる、此次の土曜日に來て下されば御一處にうつしませうとて歸りかゝる客を左のみは止めもせず、うしろに廻りて羽織を着せながら、今日は失禮を致しました、亦のお出を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文からせいもんは御免だと笑ひながらさつ/\と立つて階段はしごを下りるに、お力帽子を手にして後から追ひすがり、嘘か誠か九十九夜の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鑄型に入つた女でござんせぬ、又なりのかはる事もありまするといふ、旦那お歸りと聞て朋輩の女、帳場の女主あるじもかけ出して唯今は有がたうと同音の御禮、頼んで置いた車が來しとて此處からして乘り出せば、家中表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の餘光ひかりとしられて、後には力ちやん大明神樣これにも有がたうの御禮山々。

       三

 客は結城朝之助ゆふきとものすけとて、自ら道樂ものとは名のれども實體じつていなる處折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにや是れを初めに一週には二三度の通ひ路、お力も何處となく懷かしく思ふかして三日見えねば文をやるほどの樣子を、朋輩の女子ども岡燒ながらからかひては、力ちやんお樂しみであらうね、男振はよし氣前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、其時はお前の事を奧樣とでもいふのであらうに今つから少し氣をつけて足を出したり湯呑であほるだけは廢めにおし人がらが惡いやねと言ふもあり、源さんが聞たら何うだらう氣違ひになるかも知れないとて冷評ひやかすもあり、あゝ馬車にのつて來る時都合が惡るいから道普請からして貰いたいね、こんな溝板のがたつく樣な店先へ夫こそ人がらがわろくて横づけにもされないではないか、お前方も最う少しお行義ぎやうぎを直してお給仕に出られるやう心がけてお呉れとずば/\といふに、ヱヽ憎くらしい其ものいひを少し直さずば奧樣らしく聞へまい、結城さんが來たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顏を見るより此樣な事を申て居まする、何うしても私共の手にのらぬやんちや....なれば貴君から叱つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口するに、結城は眞面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの嚴命、あゝ貴君のやうにもないお力が無理にも商賣して居られるは此力と思し召さぬか、私に酒氣が離れたら坐敷は三昧堂さんまいだうのやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程/\とて結城は二言といはざりき。




 或る夜の月に下坐敷へは何處やらの工場の一れ、丼たゝいて甚九かつぽれの大騷ぎに大方の女子は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人限りなり、朝之助は寢ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるさゝうに生返事をして何やらん考へて居る樣子、何うかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれど頻に持病が起つたのですといふ、お前の持病も肝癪か、いゝゑ、血の道か、いゝゑ、夫では何だと聞かれて、何うも言ふ事は出來ませぬ、でも他の人ではなし僕ではないか何んな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病氣だといふに、病氣ではござんせぬ、唯こんな風になつて此樣な事を思ふのですといふ、困つた人だな種々いろ/\祕密があると見える、おとつさんはと聞けば言はれませぬといふ、おつかさんはと問へば夫れも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあ嘘でも宜いさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸ふしあはせだとか大底のひとは言はねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなし其位の事を發表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按摩に探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れて居るが、夫れをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつても詰らぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
 折から下坐敷より杯盤はいばんを運びきし女の何やらお力に耳打して兎も角も下までお出よといふ、いや行き度ないからよしてお呉れ、今夜はお客が大變に醉ひましたからお目にかゝつたとてお話しも出來ませぬと斷つてお呉れ、あゝ困つた人だねと眉を寄せるに、お前それでも宜いのかへ、はあ宜いのさとて膝の上でばちもてあそべば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、逢つて來たら宜からう、何もそんなに體裁には及ばぬではないか、可愛い人を素戻しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此處へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談はぬきにして結城さん貴君に隱くしたとて仕方がないから申ますが町内で少しは巾もあつた蒲團やの源七といふ人、久しい馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家にまい/\つぶろの樣になつて居まする、女房もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに來る歳ではなけれど、縁があるか未だに折ふし何の彼のといつて、今も下坐敷へ來たのでござんせう、何も今さら突出すといふ譯ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障らず歸した方が好いのでござんす、恨まれるは覺悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を疊に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかとなぶる、あゝ最う歸つたと見えますとて茫然ぼんとして居るに、持病といふのは夫れかと切込まれて、まあ其樣な處でござんせう、お醫者樣でも草津の湯でもと薄淋しく笑つて居るに、御本尊を拜みたいな俳優やくしやで行つたら誰れの處だといへば、見たら吃驚でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意氣かと問はれて、此樣な店で身上はたくほどの人、人の好いばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑しくも何ともない人といふに、夫れにお前は何うして逆上のぼせた、これは聞き處と客は起かへる、大方逆上性のぼせしやうなのでござんせう、貴君の事をも此頃は夢に見ない夜はござんせぬ、奧樣のお出來なされた處を見たり、ぴつたりと御出のとまつた處を見たり、まだ/\一層もつとかなしい夢を見て枕紙がびつしよりに成つた事もござんす、高ちやんなぞは夜る寐るからとても枕を取るよりはやく鼾の聲たかく、好い心持らしいが何んなに浦山しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入ると目が冴へて夫は夫は色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察して居て下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふか夫れこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がない故人前ばかりの大陽氣、菊の井のお力は行ぬけの締りなしだ、苦勞といふ事はしるまいと言ふお客樣もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然さめ/″\とするに、珍らしい事陰氣のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末もとすゑをしらぬから方がつかぬ、夢に見てくれるほど實があらば奧樣にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお聲がかりも無いは何ういふ物だ、古風に出るが袖ふり合ふもさ、こんな商賣を嫌だと思ふなら遠慮なく打明けばなしを爲るが宜い、僕は又お前のやうな氣ではいつそ氣樂だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、夫れでは何か理屈があつて止むを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうと此間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故/\、何故でもいけませぬ、私が我まゝ故、申まいと思ふ時は何うしても嫌やでござんすとて、ついと立つて椽がはへ出るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころ....と駒下駄の音さして行かふ人のかげ分明あきらかなり、結城さんと呼ぶに、何だとて傍へゆけば、まあ此處へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つ計の、彼子あれが先刻の人のでござんす、あの小さな子心にもよく/\憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあ其樣な惡者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪へかねたる樣子は五音ごいんの調子にあらはれぬ。




  

  
 

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  樋口一葉収録作品 (アイウエオ順)
  【ア行】
暁月夜 (1893年) 
あきあはせ (1896年) 
雨の夜 (1895年) 
うつせみ (1895年) 
うもれ木 (1892年) 
うらむらさき (1896年) 
大つごもり (1894年) 
【カ行】
經つくえ (1892年) 
琴の音 (1893年) 
この子 (1896年) 
【サ行】
五月雨 (1892年) 
さをのしづく (1896?年) 
十三夜 (1895年) 
すゞろごと (1896年) 
【タ行】
たけくらべ (1895年) 
たま襷 (1892年) 
月の夜 (1895年) 
【ナ・ハ行】
にごりえ (1895年) 
軒もる月 (1895年) 
花ごもり (1894年) 
反古しらべ (1896年) 
【ヤ・ワ行】
闇櫻 (1892年) 
暗夜 (1894年) 
雪の日 (1893年) 
ゆく雲 (1895年) 
別れ霜 (1892年) 
わかれ道 (1896年) 
われから (1896年)