樋口一葉の世界にようこそ  ここには樋口一葉の文学を知る上で貴重な作品が多数収録されています。 是非ご覧になり貴重な一様文学の神髄をお楽しみ下さい。
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収録作品
【1892年】
うもれ木
たま襷
闇櫻
五月雨
別れ霜
經つくえ
【1893年】
暁月夜
琴の音
雪の日
【1894年】
暗夜
花ごもり
大つごもり
【1895年】
うつせみ
たけくらべ
にごりえ
ゆく雲
雨の夜
月の夜
軒もる月
十三夜
【1896年】
あきあはせ
うらむらさき
この子
すゞろごと
わかれ道
われから
反古しらべ
さをのしづく




たけくらべ (2)


       六

 めづらしい事、此炎天に雪が降りはせぬか、美登利が學校を嫌やがるはよく/\の不機嫌、朝飯がすゝまずば後刻のちかたやすけでも誂へようか、風邪にしては熱も無ければ大方きのふの疲れと見える、太郎樣への朝參りは母さんが代理してやれば御免こふむれとありしに、いゑ/\姉さんの繁昌するやうにと私が願をかけたのなれば、參らねば氣が濟まぬ、お賽錢下され行つて來ますと家を驅け出して、中田圃の稻荷に鰐口わにぐちならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも歸りも首うなだれて畔道づたひ歸り來る美登利が姿、それと見て遠くより聲をかけ、正太はかけ寄りて袂を押へ、美登利さん昨夕は御免よと突然だしぬけにあやまれば、何もお前に謝罪わびられる事は無い。夫れでも己れが憎くまれて、己れが喧嘩の相手だもの、お祖母さんが呼びにさへ來なければ歸りはしない、そんなに無暗に三五郎をも撃たしはしなかつた物を、今朝三五郎の處へ見に行つたら、彼奴も泣いて口惜しがつた、己れは聞いてさへ口惜しい、お前の顏へ長吉め草履を投げたと言ふでは無いか、彼の野郎乱暴にもほどがある、だけれど美登利さん堪忍してお呉れよ、己れは知りながら逃げて居たのでは無い、飯を掻込んで表へ出やうとするとお祖母さんが湯に行くといふ、留守居をして居るうちの騷ぎだらう、本當に知らなかつたのだからねと、我が罪のやうに平あやまりに謝罪て、痛みはせぬかと額際を見あげれば、美登利につこり笑ひて何負傷けがをするほどでは無い、夫れだが正さん誰れが聞いても私が長吉に草履を投げられたと言つてはいけないよ、もし萬一ひよつとお母さんが聞きでもすると私が叱かられるから、親でさへ頭に手はあげぬものを、長吉づれが草履の泥を額にぬられては踏まれたも同じだからとて、背ける顏のいとをしく、本當に堪忍しておくれ、みんな己れが惡るい、だから謝る、機嫌を直して呉れないか、お前に怒られると己れが困るものをと話しつれて、いつしか我家の裏近く來れば、寄らないか美登利さん、誰れも居はしない、祖母さんも日がけを集めに出たらうし、己ればかりで淋しくてならない、いつか話した錦繪を見せるからお寄りな、種々いろ/\のがあるからと袖をらへて離れぬに、美登利は無言にうなづいて、びた折戸の庭口より入れば、廣からねども、鉢ものをかしく並びて、軒につり忍艸しのぶ、これは正太がうまの日の買物と見えぬ、理由わけしらぬ人は小首やかたぶけん町内一の財産家ものもちといふに、家内は祖母と此子これ二人、よろづの鍵に下腹冷えて留守は見渡しの總長屋、流石に錠前くだくもあらざりき、正太は先へあがりて風入りのよき場處ところを見たてゝ、此處へ來ぬかと團扇の氣あつかひ、十三の子供にはませ過ぎてをかし。古くより持つたへし錦繪かず/\取出し、褒めらるゝを嬉しく美登利さん昔しの羽子板を見せよう、これは己れの母さんがお邸に奉公して居る頃いたゞいたのだとさ、をかしいでは無いか此大きい事、人の顏も今のとは違ふね、あゝ此母さんが生きて居ると宜いが、己れが三つの歳死んで、お父さんは在るけれど田舍の實家へ歸つて仕舞たから今は祖母さんばかりさ、お前は浦山しいねと無端そゞろに親の事を言ひ出せば、それ繪がぬれる、男が泣く物では無いと美登利に言はれて、己れは氣が弱いのかしら、時々種々の事を思ひ出すよ、まだ今時分は宜いけれど、冬の月夜なにかに田町あたりを集めに廻ると土手まで來て幾度も泣いた事がある、何さむい位で泣きはしない、何故だか自分も知らぬが種々の事を考へるよ、あゝ一昨年から己れも日がけの集めに廻るさ、祖母さんは年寄りだから其うちにも夜るは危ないし、目が惡るいから印形いんぎやうを押たり何かに不自由だからね、今まで幾人いくたりも男を使つたけれど、老人に子供だから馬鹿にして思ふやうには動いて呉れぬと祖母さんが言つて居たつけ、己れが最う少し大人に成ると質屋を出さして、昔しの通りでなくとも田中屋の看板をかけると樂しみにして居るよ、他處の人は祖母さんを吝だと言ふけれど、己れの爲に儉約つましくして呉れるのだから氣の毒でならない、集金あつめに行くうちでも通新町や何かに隨分可愛想なのが有るから、嘸お祖母さんを惡るくいふだらう、夫れを考へると己れは涙がこぼれる、矢張り氣が弱いのだね、今朝も三公の家へ取りに行つたら、奴め身體が痛い癖に親父に知らすまいとして働いて居た、夫れを見たら己れは口が利けなかつた、男が泣くてへのは可笑しいでは無いか、だから横町の野蕃漢じやがたらに馬鹿にされるのだと言ひかけて我が弱いを恥かしさうな顏色、何心なく美登利と見合す目つきの可愛さ。お前の祭の姿なりは大層よく似合つて浦山しかつた、私も男だと彼んな風がして見たい、誰れのよりも宜く見えたと賞められて、何だ己れなんぞ、お前こそ美くしいや、廓内なか大卷おほまきさんよりも奇麗だと皆がいふよ、お前が姉であつたら己れは何樣どんなに肩身が廣かろう、何處へゆくにも追從ついて行つて大威張りに威張るがな、一人も兄弟が無いから仕方が無い、ねへ美登利さん今度一處に寫眞を取らないか、我れは祭りの時の姿なりで、お前は透綾すきやのあら縞で意氣ななりをして、水道尻の加藤でうつさう、龍華寺の奴が浦山しがるやうに、本當だぜ彼奴は岐度怒るよ、眞青に成つて怒るよ、にゑかんだからね、赤くはならない、夫れとも笑ふかしら、笑はれても構はない、大きく取つて看板に出たら宜いな、お前は嫌やかへ、嫌やのやうな顏だものと恨めるもをかしく、變な顏にうつるとお前にらはれるからとて美登利ふき出して、高笑ひの美音に御機嫌や直りし。




 朝冷あさすゞはいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さん又晩によ、私の寮へも遊びにお出でな、燈籠ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたれば怕い事は無いと言ひ捨てに立出る美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。

       七

 龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人ながら學校は育英舍なり、去りし四月の末つかた、櫻は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動會とて水のの原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、繩とびの遊びに興をそへて長き日の暮るゝを忘れし、其折の事とや、信如いかにしたるか平常の沈着おちつきに似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬やきもちや見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに禮を言つたは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房かみさんになるのであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどゝ取沙汰しける、信如元來かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顏して横を向く質なれば、我が事として我慢のなるべきや、夫れよりは美登利といふ名を聞くごとに恐ろしく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭やな氣持なり、さりながら事ごとに怒りつける譯にもゆかねば、成るだけは知らぬ躰をして、平氣をつくりて、むづかしき顏をして遣り過ぎる心なれど、さし向ひて物などを問はれたる時の當惑さ、大方は知りませぬの一ト言にて濟ませど、苦しき汗の身うちに流れて心ぼそき思ひなり、美登利はさる事も心にとまらねば、最初はじめは藤本さん藤本さんと親しく物いひかけ、學校退けての歸りがけに、我れは一足はやくて道端に珍らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、これ此樣こんなうつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私には折れぬ、信さんは背が高ければお手が屆きましよ、後生折つて下されと一むれの中にては年長としかさなるを見かけて頼めば、流石に信如袖ふり切りて行すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよ/\らければ、手近の枝を引寄せて好惡よしあしかまはず申譯ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと行過ぎるを、さりとは愛敬の無き人とあきれし事も有しが、度かさなりての末には自ら故意わざとの意地惡のやうに思はれて、人には左もなきに我れにばかり愁らき處爲しうちをみせ、物を問へば碌な返事した事なく、傍へゆけば逃げる、はなしを爲れば怒る、陰氣らしい氣のつまる、どうして好いやら機嫌の取りやうも無い、彼のやうな六づかしやは思ひのまゝに捻れて怒つて意地わるが爲たいならんに、友達と思はずば口を利くも入らぬ事と美登利少し疳にさはりて、用の無ければ摺れ違ふても物いふた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此處には御法度、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ。




 祭りは昨日に過ぎて其あくる日より美登利の學校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗ふても消えがたき恥辱を、身にしみて口惜しければぞかし、表町とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩に變りは無き筈を、をかしき分け隔てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵ひがたき弱味をば付目にして、まつりの夜の處爲しうちはいかなる卑怯ぞや、長吉のわからずやは誰れも知る亂暴の上なしなれど、信如の尻おし無くば彼れほどに思ひ切りて表町をばあらし得じ、人前をば物識ものしりらしく温順すなほにつくりて、陰に廻りて機關からくりの糸を引しは藤本の仕業に極まりぬ、よし級は上にせよ、ものは出來るにせよ、龍華寺さまの若旦那にせよ、大黒屋の美登利紙一枚のお世話にも預からぬ物を、あのやうに乞食呼はりして貰ふ恩は無し、龍華寺はどれほど立派な檀家ありと知らねど、我が姉さま三年の馴染に銀行の川樣、兜町の米樣もあり、議員の短小ちいさま根曳して奧さまにと仰せられしを、心意氣氣に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、彼の方とても世には名高きお人と遣手衆やりてしゆの言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大卷の居ずば彼のいへは闇とかや、さればお店の旦那とても父さん母さん我が身をも粗畧には遊ばさず、常々大切がりて床の間にお据へなされし瀬戸物の大黒樣をば、我れいつぞや坐敷の中にて羽根つくとて騷ぎし時、同じく並びし花瓶はないけを仆し、散々に破損けがをさせしに、旦那次の間に御酒めし上りながら、美登利お轉婆が過ぎるのと言はれしばかり小言は無かりき、他の人ならば一通りの怒りでは有るまじと、女子衆達にあと/\まで羨まれしも必竟は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大卷、長吉風情にけを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより學校へ通ふ事おもしろからず、我まゝの本性あなどられしが口惜しさに、石筆を折り墨をすて、書物ほん十露盤そろばんも入らぬ物にして、中よき友と埓も無く遊びぬ。

       八

 走れ飛ばせの夕べに引かへて、明けの別れに夢をのせ行く車の淋しさよ、帽子まぶかに人目を厭ふ方樣もあり、手拭とつて頬かふり、彼女あれが別れに名殘の一うち、いたさ身にしみて思ひ出すほど嬉しく、うす氣味わるやにたにたの笑ひ顏、坂本へ出ては用心し給へ千住がへりの青物車にお足元あぶなし、三嶋樣の角までは氣違ひ街道、御顏のしまり何れもるみて、はゞかりながら御鼻の下ながながと見えさせ給へば、そんじよ其處らに夫れ大した御男子樣ごなんしさまとて、分厘の價値ねうちも無しと、辻に立ちて御慮外を申もありけり。楊家やうかの娘君寵をうけてと長恨歌ちやうごんかを引出すまでもなく、娘の子は何處にも貴重がらるゝ頃なれど、此あたりの裏屋より赫奕姫かくやひめの生るゝ事その例多し、築地の某屋それやに今は根を移して御前さま方の御相手、踊りに妙を得し雪といふ美形、唯今のお座敷にてお米のなります木はと至極あどけなき事は申とも、もとは此所の卷帶黨まきおびづれにて花がるたの内職せしものなり、評判は其頃に高く去るもの日々に疎ければ、名物一つかげを消して二度目の花は紺屋の乙娘、今千束町に新つた屋の御神燈ほのめかして、小吉と呼ばるゝ公園の尤物まれものも根生ひは同じ此處の土成し、あけくれの噂にも御出世といふは女に限りて、男は塵塚さがす黒斑くろぶちの尾の、ありて用なき物とも見ゆべし、此界隈に若い衆と呼ばるゝ町並の息子、生意氣ざかりの十七八より五人組、七人組、腰に尺八の伊達はなけれど、何とやら嚴めしき名の親分が手下てかにつきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈、賽ころ振る事おぼえぬうちは素見ひやかしの格子先に思ひ切つての串戲も言ひがたしとや、眞面目につとむる我が家業は晝のうちばかり、一風呂浴びて日の暮れゆけば突かけ下駄に七五三の着物、何屋の店の新妓しんこを見たか、金杉の糸屋が娘に似て最う一倍鼻がひくいと、頭腦あたまの中を此樣な事にこしらへて、一軒ごとの格子に烟草の無理どり鼻紙の無心、打ちつ打たれつ是れを一世の譽と心得れば、堅氣の家の相續息子地廻りと改名して、大門際に喧嘩かひと出るもありけり、見よや女子をんな勢力いきほひと言はぬばかり、春秋しらぬ五丁町の賑ひ、送りの提燈かんばんいま流行らねど、茶屋が廻女まはしの雪駄のおとに響き通へる歌舞音曲、うかれうかれて入込む人の何を目當と言問はゞ、赤ゑり赭熊しやぐま裲襠うちかけの裾ながく、につと笑ふ口元目もと、何處がいとも申がたけれど華魁衆おいらんしゆとて此處にての敬ひ、立はなれては知るによしなし、かゝる中にて朝夕を過ごせば、きぬの白地の紅に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立の當時ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日此頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹す姉が身の、憂いのらいの數も知らねば、まち人戀ふる鼠なき格子の咒文、別れの背中に手加減の祕密おくまで、唯おもしろく聞なされて、廓ことばを町にいふまで去りとは恥かしからず思へるも哀なり、年はやう/\數への十四、人形抱いて頬ずりする心は御華族の御姫樣とて變りなけれど、修身の講義、家政學のいくたても學びしは學校にてばかり、誠あけくれ耳に入りしは好いた好かぬの客の風説うはさ、仕着せ積み夜具茶屋への行わたり、派手は美事に、かなはぬは見すぼらしく、人事我事分別をいふはまだ早し、幼な心に目の前の花のみはしるく、持まへの負けじ氣性は勝手に馳せ廻りて雲のやうな形をこしらへぬ、氣違ひ街道、寐ぼれ道、朝がへりの殿がた一順すみて朝寐の町も門の箒目はゝきめ青海波せいがいはをゑがき、打水よきほどに濟みし表町の通りを見渡せば、來るは來るは、萬年町山伏町、新谷町あたりをねぐらにして、一能一術これも藝人の名はのがれぬ、よか/\飴や輕業師、人形つかひ大神樂、住吉をどりに角兵衞獅子、おもひおもひの扮粧いでたちして、縮緬透綾ちりめんすきやの伊達もあれば、薩摩がすりの洗ひ着に黒襦子の幅狹帶、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき老爺おやぢの破れ三味線かゝへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷させて、あれは紀の國おどらするも見ゆ、お顧客とくいは廓内に居つゞけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼處に入る身の生涯やめられぬ得分ありと知られて、來るも來るも此處らの町に細かしき貰ひを心に止めず、裾に海草みるめのいかゞはしき乞食さへ門には立たず行過るぞかし、容顏きりやうよき女太夫の笠にかくれぬ床しの頬を見せながら、喉自慢、腕自慢、あれ彼の聲を此町には聞かせぬが憎くしと筆やの女房舌うちして言へば、店先に腰をかけて往來を眺めし湯がへりの美登利、はらりと下る前髮の毛を黄楊つげの※[#「髟/兵」、第3水準1-94-27]びんぐしにちやつと掻きあげて、伯母さんあの太夫さん呼んで來ませうとて、はたはた驅けよつて袂にすがり、投げ入れし一品を誰れにも笑つて告げざりしが好みの明烏さらりと唄はせて、又御贔負をの嬌音これたやすくは買ひがたし、彼れが子供の処業かと寄集りし人舌を卷いて太夫よりは美登利の顏を眺めぬ、伊達には通るほどの藝人を此處にせき止めて、三味の音、笛の音、太皷の音、うたはせて舞はせて人の爲ぬ事して見たいと折ふし正太に※[#「口+耳」、第3水準1-14-94ささやいて聞かせれば、驚いて呆れて己らは嫌やだな。





       九

 如是我聞によぜがもん佛説阿彌陀經ぶつせつあみだきやう、聲は松風にくわして心のちりも吹拂はるべき御寺樣の庫裏くりより生魚あぶる烟なびきて、卵塔場らんたふば嬰兒やゝ襁褓むつきほしたるなど、お宗旨によりて構ひなき事なれども、法師を木のはしと心得たる目よりは、そゞろになまぐさく覺ゆるぞかし、龍華寺の大和尚身代と共に肥へ太りたる腹なり如何にも美事に、色つやの好きこと如何なる賞め言葉を參らせたらばよかるべき、櫻色にもあらず、緋桃の花でもなし、剃りたてたる頭より顏より首筋にいたるまで銅色あかゞねいろの照りに一點のにごりも無く、白髮もまじる太き眉をあげて心まかせの大笑ひなさるゝ時は、本堂の如來さま驚きて臺座よりまろび落給はんかと危ぶまるゝやうなり、御新造はいまだ四十の上を幾らも越さで、色白に髮の毛薄く、丸髷も小さく結ひて見ぐるしからぬまでの人がら、參詣人へも愛想よく門前の花屋が口惡るかゝも兎角の蔭口を言はぬを見れば、着ふるしの裕衣、總菜のお殘りなどおのづからの御恩も蒙るなるべし、もとは檀家の一人成しが早くに良人を失なひて寄る邊なき身の暫時こゝにお針やとひ同樣、口さへ濡らさせて下さらばとて洗ひそゝぎよりはじめてお菜ごしらへは素よりの事、墓場の掃除に男衆の手を助くるまで働けば、和尚さま經濟より割出しての御ふ憫かゝり、年は二十から違うて見ともなき事は女も心得ながら、行き處なき身なれば結句よき死場處と人目を恥ぢぬやうに成りけり、にが/\しき事なれども女の心だて惡るからねば檀家の者も左のみは咎めず、總領の花といふを懷胎まうけし頃、檀家の中にも世話好きの名ある坂本の油屋が隱居さま仲人といふも異な物なれど進めたてゝ表向きのものにしける、信如も此人の腹より生れて男女二人の同胞きやうだい、一人は如法によほふの變屈ものにて一日部屋の中にまぢ/\と陰氣らしきむまれなれど、姉のお花は皮薄の二重あごかわゆらしく出來たる子なれば、美人といふにはあらねども年頃といひ人の評判もよく、素人にして捨てゝ置くは惜しい物の中に加へぬ、さりとてお寺の娘に左り褄、お釋迦が三味ひく世は知らず人の聞え少しは憚かられて、田町の通りに葉茶屋の店を奇麗にしつらへ、帳場格子のうちに此を据へて愛敬を賣らすれば、科りの目は兎に角勘定しらずの若い者など、何がなしに寄つて大方毎夜十二時を聞くまで店に客のかげ絶えたる事なし、いそがしきは、大和尚、貸金の取たて、店への見廻り、法用のあれこれ、月の幾日いくかは説教日の定めもあり帳面くるやら經よむやら斯くては身躰のつゞき難しと夕暮れの縁先に花むしろを敷かせ、片肌ぬぎに團扇づかひしながら大盃に泡盛をなみなみと注がせて、さかなは好物の蒲燒を表町のむさし屋へあらい處をとの誂へ、承りてゆく使ひ番は信如の役なるに、其嫌やなること骨にしみて、路を歩くにも上を見し事なく、筋向ふの筆やに子供づれの聲を聞けば我が事を誹らるゝかと情なく、そしらぬ顏に鰻屋の門を過ぎては四邊あたりに人目の隙をうかゞひ、立戻つて駈け入る時の心地、我身限つて腥きものは食べまじと思ひぬ。




 父親和尚は何處までもさばけたる人にて、少しは欲深の名にたてども人の風説うはさに耳をかたぶけるやうな小膽にては無く、手の暇あらば熊手の内職もして見やうといふ氣風なれば、霜月のとりには論なく門前の明地にかんざしの店を開き、御新造に手拭ひかぶらせて縁喜えんぎの宜いのをと呼ばせる趣向、はじめは恥かしき事に思ひけれど、軒ならび素人の手業にて莫大の儲けと聞くに、此雜踏の中といひ誰れも思ひ寄らぬ事なれば日暮れよりは目にも立つまじと思案して、晝間は花屋の女房に手傳はせ、夜に入りては自身みづからをり立て呼たつるに、欲なれやいつしか恥かしさも失せて、思はず聲だかに負ましよ負ましよと跡を追ふやうに成りぬ、人波にもまれて買手も眼の眩みし折なれば、現在後世ごせねがひに一昨日來たりし門前も忘れて、簪三本七十五錢と懸直かけねすれば、五本ついたを三錢ならばと直切ねぎつて行く、世はぬば玉の闇の儲はこのほかにも有るべし、信如は斯かる事どもいかにも心ぐるしく、よし檀家の耳には入らずとも近邊の人々が思わく、子供中間の噂にも龍華寺では簪の店を出して、信さんが母さんの狂氣面きちがひづらして賣つて居たなどゝ言はれもするやと恥かしく、其樣な事は止しにしたが宜う御座りませうと止めし事も有りしが、大和尚大笑ひに笑ひすてゝ、默つて居ろ、默つて居ろ、貴樣などが知らぬ事だわとて丸々相手にしては呉れず、朝念佛に夕勘定、そろばん手にしてにこ/\と遊ばさるゝ顏つきは我親ながら淺ましくて、何故そのつむりは丸め給ひしぞと恨めしくも成りぬ。
 元來もとより一腹一對の中に育ちて他人交ぜずの穩かなる家の内なれば、さして此兒を陰氣ものに仕立あげる種は無けれども、性來をとなしき上に我が言ふ事の用ひられねば兎角に物のおもしろからず、父が仕業も母の處作も姉の教育したても、悉皆あやまりのやうに思はるれど言ふて聞かれぬ物ぞと諦めればうら悲しき樣に情なく、友朋輩は變屈者の意地わると目ざせども自ら沈み居る心の底の弱き事、我が蔭口を露ばかりもいふ者ありと聞けば、立出でゝ喧嘩口論の勇氣もなく、部屋にとぢ籠つて人に面の合はされぬ臆病至極の身なりけるを、學校にての出來ぶりといひ身分がらの卑しからぬにつけてもる弱虫とは知る物なく、龍華寺の藤本は生煮えの餅のやうに眞があつて氣に成る奴と憎くがるものも有りけらし。

       十

 祭りの夜は田町の姉のもとへ使を命令いひつけられて、更るまで我家へ歸らざりければ、筆やの騷ぎは夢にも知らず、明日に成りて丑松文次その外の口よりこれ/\で有つたと傳へらるゝに、今更ながら長吉の亂暴に驚けども濟みたる事なれば咎めだてするも詮なく、我が名を借りられしばかりつく/″\迷惑に思はれて、我が爲したる事ならねど人々への氣の毒を身一つに背負たる樣の思ひありき、長吉も少しは我が遣りそこねを恥かしう思ふかして信如に逢はゞ小言や聞かんと其の三四日は姿も見せず、やゝ餘炎ほとぼりのさめたる頃に信さんお前は腹を立つか知らないけれど時の拍子だから堪忍して置いて呉んな、誰れもお前正太が明巣あきすとは知るまいでは無いか、何も女郎めらうの一疋位相手にして三五郎を擲りたい事も無かつたけれど、萬燈を振込んで見りやあ唯も歸れない、ほんの附景氣に詰らない事をしてのけた、夫りやあ己れが何處までも惡るいさ、お前の命令いひつけを聞かなかつたは惡るからうけれど、今怒られてはかたなしだ、お前といふ後だてが有るので己らあ大舟に乘つたやうだに、見すてられちまつては困るだらうじや無いか、嫌やだとつても此組の大將で居てくんねへ、左樣どち[#「どち」はママ]ばかりは組まないからとて面目なさゝうに謝罪わびられて見れば夫れでも私は嫌やだとも言ひがたく、仕方が無い遣る處までやるさ、弱い者いぢめは此方の恥になるから三五郎や美登利を相手にしても仕方が無い、正太に末社がついたら其時のこと、決して此方から手出しをしてはならないと留めて、さのみは長吉をも叱り飛ばさねど再び喧嘩のなきやうにと祈られぬ。




  

  
 

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  樋口一葉収録作品 (アイウエオ順)
  【ア行】
暁月夜 (1893年) 
あきあはせ (1896年) 
雨の夜 (1895年) 
うつせみ (1895年) 
うもれ木 (1892年) 
うらむらさき (1896年) 
大つごもり (1894年) 
【カ行】
經つくえ (1892年) 
琴の音 (1893年) 
この子 (1896年) 
【サ行】
五月雨 (1892年) 
さをのしづく (1896?年) 
十三夜 (1895年) 
すゞろごと (1896年) 
【タ行】
たけくらべ (1895年) 
たま襷 (1892年) 
月の夜 (1895年) 
【ナ・ハ行】
にごりえ (1895年) 
軒もる月 (1895年) 
花ごもり (1894年) 
反古しらべ (1896年) 
【ヤ・ワ行】
闇櫻 (1892年) 
暗夜 (1894年) 
雪の日 (1893年) 
ゆく雲 (1895年) 
別れ霜 (1892年) 
わかれ道 (1896年) 
われから (1896年)